おかげさまで無事終了致しました。

去る4月9日付でお知らせ致しました山形県立博物館で現在開催されている企画展「転換点-幕末動乱と統一山形―」。その記念講演会(6月2日午後1時30分〜3時)テーマ「吉田大八・再考〜庄内藩征討戦との関わりのなかで〜」は、おかげさまで無事終了致しました。たくさんの方が詰めかけて下さり、幕末期の歴史に対する関心の高さを痛感したところです。講演終了後には思いもしないこんなうれしい感想も頂戴しました。「幕末から明治維新の時期は短期間の間に沢山の事件や出来事があって、説明は大変と思います。が、岩井さんのご講演は、キーポイントがしっかりとしかもわかりやすいので、理解しやすく、なおかつ面白いです」。過分なるお言葉、とても励みになりました。小生もなんとか責任を果たす事が出来たようで、まずはひと安心です。

ともすると論じる以前に、ある人物に対してア・プリオリに「勤王」だの「佐幕」だのの記号・符牒に還元してしまいがちな環境の中、そう単純に還元できないありのままの人間・吉田大八を存分に語らせて頂きました。

つまり、これまであまりにも「勤王家・吉田大八」のイメージが先行する形で強調されて来たため、吉田大八の「王政復古の大号令」に対する批判的なことばや「薩長打倒の策」の建言、さらには「会津藩救済」への思いをつづったことば等々は意図的に無視され続けて来た感がありました。言い方をかえれば、これまで吉田大八のありのままの姿が隠され、一方的に「勤王家」としての神格化が推し進められてきたと言えるようなのです。

その背景には昭和19年に繰り広げられた「勤王家を探せ!」的な、戦時における皇国史観の強化を目論んだ運動がありました。山形県では内務省出身の斎藤亮県知事(昭和17年〜20年)主導で「勤王家の動向とその事績の研究」を趣旨とする「研究会」を発足させ、天童藩中老・吉田大八をその脈絡で該当する一人として選んだ経緯がありました。繰り返しになりますが「王政復古の大号令」に対する批判的なことばや「薩長打倒の策」の建言、さらには「会津藩救済」への思いをつづった大八の「勤王家」という符牒や記号を無化するに充分なことばを、幕末史のなかで、具体的には「庄内藩征討戦」との関わりの中で捉え直し、その意味深さを中心にお話しさせて頂いたわけです。嬉しいことに、少しは聞いて下さった方々にじぶんの言葉が届いたような感触を得る事が出来ました。真剣にお聞きいただき心より感謝申し上げます。

ご存知のとおり慶応4年6月18日、吉田大八は観月庵にて自刃。その観月庵のある妙法寺ご住職・矢吹海慶氏にもご参加を賜わり、大変嬉しく思っています。最後に拙い小生の講演をお聴き下さった全ての参加者、主催者である県立博物館のスタッフの皆さん、どうもありがとうございました。また、写真は今回も友人の吉野一郎氏が撮って下さいました。かさねてお礼申し上げます。

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