河井継之助終焉の地を訪ねて来た。
戊辰戦争北越戦線における最大の激戦地となった長岡城攻防戦のさなか、河井は不覚にも被弾し、戸板を改良した担架に乗せられ、過酷な八十里越ルートで会津へと向かった…。
《八十里 こし抜け武士の 越す峠》 継之助
だが、只見の山中で力尽き、1868年(慶応4)8月16日、一時投宿していた塩沢の村医矢沢宗益宅にて、ついに42年の生涯を閉じた。さぞかし無念なことだったろう。
遡れば慈眼寺(小千谷)での新政府軍軍艦岩村精一郎との談判も含め河井への評価は様々だが、以前から一度は終焉の地となった只見の空気に直に触れたいと思っていた。やっと意がかなった調査となった。ただ、河井が眠る医王寺は現在いかにも無住の廃寺然としていて(未確認)複雑な感情が込み上げてきたのも事実であった。
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