連詩「暗愚小伝」を書いた高村山荘

連詩「暗愚小伝」を書いた高村光太郎に、学生時代感銘をうけた。
このたび遠野、花巻を巡ってきたが、
まったく予定していなかった高村光太郎の通称「高村山荘」と、
さらに高村光太郎記念館を訪れる機会に偶然にも恵まれ、
2時間ほど立ち寄ってきた。
高村光太郎は、東京大空襲で疎開を余儀なくされ花巻へ。
そしてその花巻でも空襲に遭い、さらなる山奥の大田村山口に移り、
7年間の独居生活という過酷な環境のなかで、自省の日々を送った。
資料で簡単にまとめると次のようになる。
《昭和に入っての高村光太郎の生活は、精神を病んだ智恵子の看病と、日本文学報国会詩部会会長に象徴される私と公とに分断される。一方に『智恵子抄』(1941)が編まれ、一方に戦争詩集『大いなる日に』(1942)などが出版された。
そして第二次世界大戦後、疎開先の岩手県太田村山口(現、花巻市太田)で、連詩「暗愚小伝」が書かれたのも、こうしたじぶんの半生を省みてのことであった。》
ご存知のとおり連詩「暗愚小伝」は、
光太郎が自らの戦争責任をテーマとしてつづった呵責なき作品である。
ここで比較して考えたい人物として思い浮かぶのが歌人斎藤茂吉である。
茂吉もたくさんの戦争をテーマにした作品を残している。
だが、戦争責任の問題に踏み込むスタンスはなかった。
戦争を賛美した作品を書いたじぶんをあたかも隠すように処した。
その意味では光太郎と茂吉は戦争を挟んで対極に佇んでいたように思う。
もう随分長いこと光太郎の詩に触れることがなくなっていたが、
その世界の深さに改めて気づかされ、
とても刺激的で有意義な時間を過ごすことができた。

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