混迷の出羽戊辰戦争 ⑴ 秋田藩

■ 仙台藩士11人の斬殺

1868(慶応4)年7月4日夜、秋田藩に派遣されていた仙台藩使者の志茂又左衛門以下11名は、秋田藩士22名の襲撃を受け斬殺され、五丁目橋のたもとにその内6名の首が晒されるという事件が起きる。

詳しく辿ってみると、佐賀藩の策士前山清一郎の奇策、つまり奥羽鎮撫総督九条道孝らが仙台で幽閉されていた際、これを奪還するため「九条道孝総督と、秋田にいる澤為量副総督を一緒に連れて京都に戻り、朝廷に戦争中止を訴える」と持ち掛けて仙台藩を欺き、奪還に成功した一件。それへの対抗として実行された仙台藩士の秋田派遣は、醍醐忠敬を加えた3卿を人質として再び仙台に取り戻すこと、さらに同盟軍への全面的なコミットを逡巡している秋田藩に同盟軍への協力を促すこと、この2つが狙いであった。しかし結果は、使者11人の命はおろか、同盟側は貴重な人質を失ったうえ、秋田藩の同盟離脱にもつながることとなってしまったのである。

動きをみると次のような経過を辿っている。秋田に派遣された志茂又左衛門以下仙台藩士10余名及び相馬、新庄藩士各1名は7月1日、久保田城下の栄町扇丁幸野旅館に宿泊。秋田藩根岸靭負は直ちに藩主佐竹義堯に拝閲して、仙台藩使節の来意を具上。その後、秋田藩首脳部は使節への対応策を朝まで議論したが、返すべき結論は出なかった。評定奉行の鈴木吉左衛門はその不甲斐なさに憤慨して引責自刃。とても藩是を決定するまでに到らなかったが、そこでまずは使節の来意をさらに詳しく聞こうということになり、家老の小鷹狩源太、石井忠行らで応接することとなる。

この時点でみると、秋田藩は領内に総督府軍を抱えつつ、すでに三方(北=南部藩・東=仙台藩・南=庄内藩)を同盟軍勢力に包囲されている状況となっていた。

同盟に決断を迫られる緊迫した空気のなか、秋田砲術所の壮士数人が密かに集まり斬奸策を論ず。出した結論に一同血誓し、密かに沢為量に会い、内官(同盟支持の重臣たち)等を酒に誘ってくれれば、我等はその帰路を狙ってこれを殺戮し、藩論の決定を促がす所存であると伝えた。沢はこれを了解したが、ひとり奥羽鎮撫総督府下参謀大山格之助だけはこの計画の甘さに不満を述べ、リーダーであった豊間源之進を諭して、逆に「仙台藩の使節を誅すれば列藩と断交することになり、藩論も定まろう」と教唆した。この過激な言葉に対し、豊間が「義に背くを如何」と問うと、大山は冷徹に「使節は表向き、陰に刺客を兼ねる。殺すも何ぞ不義ならんや」と。これにより、使節暗殺を決行することになり、その人員を富岡虎之助以下22名とした。

『仙臺藩殉難小史』(仙臺藩戊辰殉難者五十年弔祭會編;大正6年刊;出版人/杉沼修一)をみるかぎりでは、仙台藩士11人の惨殺は、砲術稽古所の壮士たちの激情をうまく利用した鎮撫総督府下参謀大山格之助と、陰に隠れているが「気息舎」(いぶきのや:後述)の高瀬権平の策謀ということになろうか。なお仙台藩使者斬首の罪状は「総督府三卿の宿舎焼討ちの謀略あり」とのこと。事の流れから考えても捏造であった可能性がきわめて高い。この暗殺事件によって、秋田藩は新政府軍の先鋒として後へは引けなくなる。使節の首が晒されたその日のうちに、以前から内応していた新庄藩と水面下で連携しながら、秋田藩は同盟軍との戦闘に動き出すこととなる。これが秋田口つまり神宮寺から久保田、大館へと広がって行った出羽における本格的な戦いの起点であった。しかし、結果は7月中旬から8月いっぱいは同盟軍、いや鬼玄蕃率いる庄内藩二番大隊の圧倒的な攻勢が続く。後退戰が続く秋田藩内で、官軍への疑惑と、官軍に同調して同盟軍を敵に回したことに対する悔悟の念が次第に増大していくのである。

そんな状況にある1868(慶応4)年8月18日、家老戸村十太夫のもとへ一通の「投げ文」が寄せられる。その資料が『秋田県史』に次のような記事として載っている。「大山格之助のせいで秋田六郡(秋田・山本・河辺・仙北・平鹿・雄勝の六つの郡;引用者註)を棒に振る(=攻略される)ことになるかもしれません。」そのような状況を打開するため「家老の力でなんとかご盡力下さいますようお願いします」といった内容だ。つまり、新政府軍との協力関係を絶ち同盟軍に復すべきだという主張にほかならない。

また、片岡栄治郎著『秋田藩の戊辰戦争〜江間伊織の日記から』をみると、このあと戸村十太夫は永蟄居を命ぜられることになる。その表向きの理由は、戸村が5月3日、独断で「奥羽列藩同盟調印」に臨んだとして流布されていた。ところが、1958(昭和33)年に一般公開された2000余点にも及ぶ戸村家文書により、「同盟調印」は戸村の独断ではなく、藩主佐竹義堯の指示によるものであったことが判明、戸村家の名誉がなんと90年ぶりに回復されたという驚くべき後日談まであるのだ。資料を漁って行くと藩主佐竹義尭は家老戸村十太夫をことのほか信頼していたとあるから、永蟄居を裏で指示したのも鎮撫府の大山格之助であった可能性が高いのだろう。そしてそれを暗示するかのように8月6日〜9月7日までの江間伊織日記1冊が欠けているというのである。時期的に見て戸村処分と重なっているため、「投げ文」の一件との関連があるのでは…と考えられる。

一方、秋田北部大館での戦闘も既に始まっており、南部藩の攻撃により大館城が陥落。その関連記事を笹嶋定治編纂『大館戊辰戦史』(藤嶋書店刊/1919:大正8年)93頁〜94頁にみることが出来る。そこには1868(慶応4)年8月22日の出来事として2人の口述筆記が掲載されている。

【山本八十吉翁談話】…略…大館落城し、比内は敵の蹂躙する所となりぬ、敵将、楢山佐渡(盛岡藩家老・最高司令官−引用者註)は扇田村に於いて、今より『延寿元年』と年号の改まり、且つ向かう三カ年間の貢租を免ずる旨を伝達せられしとぞ…略…(文中の「比内」「扇田村」はいずれも現在は大館市に属している−引用者註)」「【越前慶吉翁曰く】落城後、敵将は大館附近親郷肝煎等を大館に招集して、三カ年の貢租を免する旨、その他大いに盡力せらるゝ様申渡され、予は当時、その場に在りて親しく實況を知悉せり。」

新元号「延寿」という文字がみてとれ、興味深い。6月8日をもって輪王寺宮公現法親王が「東武皇帝」=奥羽列藩同盟の盟主として即位、北方(Northern)政権が誕生?「慶応」につぐ元号として「延壽」を定めていた? 残念ながらそれらのことを確認する術は今のところ筆者の手中には無い。そんな中にあって、1868年10月18日付(和暦に換算すると慶応4年9月3日)のニューヨークタイムズに「日本にはふたりのミカドが存在する」「北方(Northern )政権」の存在が報じられている。内容を云々する以前に、国外メディアによって実際紙面に掲載されたこと自体もっと注目して良いのではあるまいか。国内の様々な資料(各藩が記した膨大な戦略あるいは謀略文書)と比べ相対的で、ある意味客観的な資料となり得るはずだからである。和暦に換算すると慶応4年9月3日という発行日をみるとおそらく打電から記事になるまで1ヶ月程を要したのであろうか。記事が出た9月3日頃といえば、既に同盟軍の敗北が濃厚になっていたタイミングであったが「北方政権側が優勢」と報じられていたのである。列藩同盟が輪王寺宮公現法親王(孝明天皇の義弟)を盟主として迎えたのは6月8日(御座所は仙台の仙岳院)、それから1ヶ月半ほどは拮抗した力関係だったと言えるかも知れない。したがって記事に記されている内容は8月初頭の状況と考えられるのだ。いずれにせよ、幕末の一時期、奥羽の地に新たな政権が具現化されていたとすれば、驚き以外の何ものでもない。明治新政府樹立以降、完璧に抹殺し続けられた情報ということになる。しかしながら、善戦するも、北陸、福島方面の他戦線における同盟軍の恭順降伏が相次ぎ、庄内藩も9月24日やむなく降伏するに至る。

■ 秋田藩同盟離反の予兆と背景

予兆の一つとして、1867(慶応3)年12月25日に起きた薩摩藩邸焼き討ち事件にも見ることができる。いっけん秋田藩とは無関係に思える事件だが、背景として密接な関係があった。根拠地であった三田の薩摩藩邸には、尊皇攘夷を自称する浪士たちが全国から多数招き入れられていた。その中には、秋田藩の高瀬権平の名もあった。高瀬は1862(文久2)年、国学者平田篤胤の思想的な流れを汲む思想塾「気息舎」に入門。当時の平田家の当主であった平田銕胤の三女すずを娶り、「気息舎」のリーダー的存在に躍り出る。過激な攘夷派の行動に批判的だった当時の秋田藩江戸詰家老大縄織衛を1867(慶応3)年12月19日の夜に暗殺し(『秋田戊辰勤王史談』後藤宙外:本名寅之助編/52頁)、その後薩摩藩邸に身を寄せていた人物である。仙台藩の使節11人を襲撃した砲術稽古所(秋田砲術所)の壮士たちも、この高瀬権平の思想の影響下にあったと考えられる。

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