映画「十一人の賊軍」私感

映画「十一人の賊軍」は慶応4(1868)年5月から8月にかけて繰り広げられた北越戊辰戦争を舞台に描いた豪華キャストによるアクション映画だ。史実を背景に置いているとはいえ、あくまでフィクションであることはもちろん押さえておく必要があろう。しかもメインテーマも戊辰戦争の流れや殺陣の凄まじさ、特撮の妙や過激さにはない、と筆者には感じられた。登場人物たちの表情から、はかり知れない苛烈な内面の葛藤こそにこの映画の真のテーマがあると思われたからである。

5月2日、越後長岡藩家老河井継之助は、強引に会津征討を迫る新政府軍軍監岩村精一郎と小千谷慈眼寺において談判するも決裂。それは当然の結果であった。あて職でしかない岩村精一郎の出る幕ではなく、すでに4月20日の時点で黒田清隆と山縣有朋の「作戦計画ノ一般方略」(大山柏著『戊辰役戦史』より)によって「長岡城ヲ攻撃スベシ」の方針は決められていたからにほかならない。

それをうけ長岡藩は他の北越5藩にも呼びかけ、5月3日奥羽25藩で既に結成されていた仙台・米沢両藩を核とした列藩同盟加盟への旗色を明確化する。それに対し同盟加盟を本意としない幼き藩主溝口直正を擁する新発田藩であったが、最終的に5月6日、長岡藩ら5藩とともにやむなく同盟に合流することになる。しかしながら派兵を逡巡しつづけ、藩論も定まらず混迷を深めていた。

映画「十一人の賊軍」はそんな新発田藩内の苦悩を人物の所作や表情をとおして前面に出そうとした作品である。だが、それは二次的な要素で、とりわけ原作者笠原和夫が描きたかったのはそういった現象的な位相ではなく、個々人が誰ひとり例外なくおかれている「関係の絶対性」という主観を越えた冷酷な現実の壁の在りようだったような気がした。

かつて思想家吉本隆明は「マチウ書試論」のなかで「当事者にはどうすることもできない状況の不可避さ」があり、その存在を「関係の絶対性」と表現してみせたが、まさしく当時の新発田藩を取りまく状況を描くなかに、原作者笠原和夫ならびにその意図を汲んだ白石和彌監督は「関係の絶対性」をテーマとして奥深く据え置いているに違いないと感じたのである。

もう少し噛み砕いて表現すれば、個々人がいかに崇高な理念や信念を持っていても、現実として押し寄せてくる圧倒的な局面を前にしたとき、いかなる観念といえどもあっけなく無力化されてしまう構造的な壁があるということだ。

幼き藩主である溝口直正に代わり、藩の実権を掌握する阿部サダヲ演じる新発田藩城代家老の溝口内匠(たくみ)を軸に、新発田藩が内包している不条理があぶり出されていく。同盟軍への派兵を執拗に促そうと入城した米沢藩家老色部長門との駆け引きのなか、引き裂かれる程の葛藤を生きていたであろう溝口内匠。そして、それを演じる阿部サダヲの、内面の起伏=葛藤をあえて露わにしない表情と淡々とした演技はやはり流石であった。その佇まいこそ「関係の絶対性」を如実に、そして冷徹に表現していたのではないか。

一方、映画の主役である重罪人マサ(妻を新発田藩士に手込めにされ復讐)を演じる山田孝之の魅力はさすがに際立っていたが、他9人の罪人と藩重臣たちの織りなす物語の展開は、あくまでもエンターテインメント的な要素でしかなかったように思えた。

観終わって作品全体を振り返ると、この作品のカメラの焦点は「関係の絶対性」を象徴して屹立している2人の登場人物に収斂していることがわかった。ひとりは先述した藩の命運を任されている城代家老溝口内匠。そしてもうひとりは仲野太賀演じるまさしく純真な藩士鷲尾兵士郎にほかならなかった。直心影流の使い手。剣豪らしく曲がったことが大嫌いな実直な人物で、新発田藩は同盟軍とともに新政府軍に立ち向かうべきだと考えている人物という設定だ。

新政府軍が藩領に侵入するタイミングを遅らせ、同時に同盟からの疑念を払拭させるべく、新発田藩では重罪人たちに長岡藩標の偽装を命じ、仮設の砦を急造させる。そしてその砦を死守せんがために奮戦する重罪人たちの苦渋にみちた時間経過がこの映画のストーリーのすべてなのだ。その前提には目的を果せば無罪放免にするという藩と重罪人たちとの約束があり、自由の身になりたい一心の罪人たちはその役目をほぼ果たす。しかし、溝口内匠は、周囲に藩の内状を察知されることを恐れ罪人たちとの約束をあっさりと反古。それどころか逆に口封じもかね、ご用済みということで無慈悲にも処断してしまうのである。それを目の当たりにした鷲尾兵士郎は溝口内匠を許すことができず、単身で、藩の命つまりは溝口内匠の命令に従う傭兵たちとの死闘に挑み、無惨にも果てるのである。その鷲尾兵士郎こそが映画のタイトルである「十一人目の賊軍」であったというわけである。

かくして新発田藩は、大義と士道を貫こうとしたために焼き尽くされた長岡藩とは異なり、不可解な執政を繰り返したにもかかわらず、いやそれ故にというべきか、結果的に町を焼かれずに新時代を迎えることとなる。この皮肉ともとれるリアルな対比を私たちはどう理解すべきなのか問われている作品でもあるような気がした。

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