探求とか研究のありよう

 ある分野で新しく挑戦を始めると、そこには既成事実や一般常識として君臨している〈知〉の蓄積された貯蔵庫がみえてくる。当然そこには睨みをきかせる管理者がいて、世間では彼のことを〈権威者〉と呼んでいる。彼はまたその周辺に多大な影響力を保有し、ひとつの勢力のなかでカリスマとして君臨している場合が多い。そんな環境下で、挑戦を始めたばかりの新参者が、〈権威者〉の説を覆すようなまったく新しい発見をするとどうなるか。ここが面白いところだ。〈権威者〉は新参者の侵入を許すまい、自分たちの学問上のヒエラルキーを壊されまいと、新参者を叩き始めるのである。超有名な作品でわかりやすく比喩すれば、一世を風靡した山崎豊子の長編小説『白い巨塔』のようなドラマがどこででも進行することになる。
 探求とか研究とかで得た「知的財産」が、そのまま末代までその学問的価値を保持できるものかどうかは、その内容によってまちまちだが、新たな資料の発掘や分析・解析方法の進化等で、それまで達成されていた成果が相対化され、色褪せてしまうことだって普通にあり得ることだ。それを認めたくない〈権威者〉たちは、おおにして墓穴を掘り始めることになる。
 探求とか研究とか、つまり学問は、一人の学者の実績を作ってそれで終わりではない。探求とか研究とかの成果は万人に開かれ、そして引き継がれて行くのが自然であり、〈権威者〉の独占物であってはならない。ましてや研究成果は、次々に新しい挑戦者たちの努力によって、常に書き換えられて行くのも道理なので、旧態依然たる固定概念に縛られていてはならない。新参者もまた、〈権威者〉の圧力に屈してはいけないのである。

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