奥羽越列藩同盟を突然離脱し、新政府軍側についた久保田藩(秋田藩)討伐に向かった同盟軍(仙台・米沢・山形・天童・上山・新庄)。しかし、慶応4年(1868)7月11日の未明、その同盟軍にさらなる悲劇が襲いかかる。及位(現在の真室川町旧及位/のぞき)において、同盟の一員であった新庄藩の軍が一転、新政府軍に内応、同盟軍を追撃することとなる。北は秋田軍、南は新庄軍に不意に挟み撃ちにされた同盟軍は、ちりぢりに逃げまどったと伝えられている。上山藩軍総督・山村求馬はこの戦闘のなかで落命している。
なぜ、こういう事態が起こるのか。大義名分においては新庄藩内部において、藩論を「尊皇」に決したという表現になろうか。あらゆる場面において「尊皇」の文字が躍るわけだが、この状況下で「尊皇」を標榜する事は全国的にみても「尊皇」それ自体を必ずしも意味しているわけではなく、武力倒幕を正当化するための、あるいは新政府軍への忠誠を示すための符牒であったに過ぎない。つまり、新庄藩においても同じであった。調べてみるとその背景には意外な与件が隠されていることがわかる。時の新庄藩主・戸沢正実(まさざね)の母、つまり前藩主・戸沢正伶(まさよし)の正室・貢姫にこそ、その新政府軍への内応の本当のカギが隠されていたからである。資料によるとその貢姫は、島津氏第25代当主=第8代薩摩藩主・島津重豪(しげひで)の娘(11女)であった。1日も早い武力倒幕の完遂を急ぐ薩摩・長州を中軸とした新政府軍は、貢姫を介して新庄藩を懐柔することに成功したと考えた方がむしろ自然なのである。
つまり、血は大義より重し、といったところだろう。