奥羽鎮撫総督府下参謀の世良修蔵(長州)と大山格之助(薩摩)について、両者ともあまりいい記述を見いだせないが、とりわけ大山格之助については新政府陣営内での評価も厳しいものであったことを、このたび『佐賀藩戊辰戦史』で知った。いずれにせよ、当初任命されていた品川弥二郎(長州)と黒田清隆(薩摩)の両者が辞退せず、奥羽鎮撫総督府の参謀として寒風沢(仙台)から上陸していたら、奥羽の幕末風景も多少は異なっていたかもしれないという幻想はなかなか捨てがたい。
「『官軍が敗戦につぐ敗戦を以てしているのは、参謀大山格之助の負うべき責任である』として『奥羽鎭撫総督府参謀大山格之助戦状』の、『さて、官軍むこうところ、ことごとく不利、一歩進んで十歩退き、謀策その機に当らず、我が軍、困苦をきわむ。諸道の官軍に秀でて死傷多し。畢竟、微私、全く軍略に拙く、衆兵を損じ、このために人望を失い、惣軍沸騰、参謀の任に堪えず、寸功を添さざるの重罪、いまさら恐縮の至りに堪えず候えども云々(薩軍出軍戦状)』(宮田幸太郎著『佐賀藩戊辰戦史』「奥羽の平定」より)
「朝廷の奥羽諸藩に対する認識は、不足、不良の甚だしきものがあった。当時としては京都より遥か遠い東北の辺地にいる諸大名に対しては、殆ど内情を理解していなかった。それがそもそもの原因であり、従って仙台、盛岡、秋田その他の大大名の藩内事情等についても、無知に近い状態であった。これに端を発した失政、失策の連続や、人選の誤り等が次第に積み重なり、ついに東北の変乱を招き…略…官軍哀史にほかならない。」(大山柏著『戊辰役戦史・下巻/第八編「奥羽の戦乱」:第一章』より)
北陸戦線においても同様のことがあった。会津攻めを幾度となく催促された長岡藩家老河井継之助が、征討軍本営のある小千谷慈眼寺を訪れ、非戦の必要性を説いた際、それを蹴って「戦場で会おう」と挑発した軍監岩村精一郎(土佐)の対応と、奥羽の両参謀のありようが、あまりにも似ているのだ。そこには新政府軍の人事に於ける思想を感じてしまうのである。和平を了諾してしまうような良識を持った参謀ではだめだったということなのだろう。従わない者は徹底的に殲滅する。そして、その考えが奥羽にあっては庄内藩(薩摩藩邸焼き討ちに対する薩摩藩の報復:大山格之助)と会津藩(禁門の変に対する長州藩の報復:世良修蔵)に対する妥協を許さない征討戦だったのである。