〈関宿〉会談のこと

◆奥羽戦争は回避寸前まで辿り着いていた!

羽州街道七ヶ宿に〈関宿〉や〈湯ノ原〉といった戊辰戦争関連資料に頻繁にその名が出てくる旧宿駅がある。戦争への流れが差し迫ってきた時、奥羽諸藩が会津を救済する為に会議を開いたところだ。関宿本陣・渡辺丁七邸を会場に、仙台藩、米沢藩、二本松藩、相馬藩、そして会津藩の家老たちが集い、いわれのない「朝敵」の汚名に苦しむ会津を救済する為の知恵を出し合った。慶応4年(1868)4月29日のことである。

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その後、仙台藩の但木土佐は他の奥羽諸藩にも呼びかけ、同年閏4月11日、奥羽14藩で白石城下片倉邸において拡大会議を開催。これが通称白石列藩会議といわれているものである。そこで吟味しまとめた「会津藩寛典処分嘆願書」を翌12日、岩沼に宿陣していた奥羽鎮撫総督府九条道孝総督にとどけ、これでなんとか、会津にはやむを得ず一定程度の犠牲を了諾してもらう事になるが、戦争の奥羽へのこれ以上の拡大を抑え、以後なんとか平和裏に事を鎮める事ができるようになった…と一同胸を撫で下ろしたのである。
しかし、事は思わぬ方向に転換する。鎮撫総督府のなかで、実権を握っていた強硬派下参謀世良修蔵がその奥羽諸藩の平和への願いをこめた嘆願書を無慈悲にも拒絶したのである。奥羽諸藩による会津救済のためのゆるやかな平和会議でしかなかった協議会は、急転、新政府軍と対峙する軍事同盟へとやむなく転換して行く事になるのである。この経緯は奥羽の戊辰戦争における重要な与件として長く記憶にとどめておく必要を感じる。

写真提供/七ヶ宿町立「水と歴史の館」
昭和32年頃飯沼寅治氏撮影したもので、この建物は現存していない。

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