庄内藩はなぜ「朝敵」か

鳥羽・伏見騒乱の後、慶応4年1月10日に新政府が「朝敵リスト」を公示したが、そのとき庄内藩は征討の対象=「朝敵」に該当してはいなかった。しかし、その後いつしか庄内藩は「朝敵」の烙印を押され、実際に天童藩・山形藩・上山藩などの諸藩に「庄内藩」征討戦への派兵命令が奥羽鎮撫総督府より出され、ついに慶応4年4月24日早朝、清川口(現山形県東田川郡庄内町清川)にて奥羽ではじめての砲声が轟くことになる。

庄内藩が「朝敵」とされた理由として一般的に考えられている寒河江柴橋の倉庫から米2万3千俵を酒田に運び出した一件は、慶応4年3月26日のことであった。それが本当に「朝敵」となった理由だとしたら経過がおかしいのだ。大山柏の大著『戊辰役戦史』下巻/「朝廷の失政、失策」を読むと、2月17日には東征大総督府総裁有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)、参謀西郷隆盛(さいごうたかもり)不在にもかかわらず、下参謀林通顕(はやしみちあき)と奥羽鎮撫総督府沢為量(さわためかず)との間で、恣意的に「庄内藩」の処遇についてすでに検討されており、あたかも「朝敵」と同じような立場にみられていたのである。

摩訶不思議な歴史の暗渠のひとつと言えよう。やはり「薩摩藩邸焼き討ち事件」に対する薩摩藩の私怨による報復だったのだろうか。主に庄内藩征討の指揮に当っていた奥羽鎮撫総督府下参謀大山格之助は薩摩藩士で、薩摩藩邸に、江戸市中を撹乱していた浪士たちの捕縛の為に出役した主力部隊は新徴組をふくむ庄内藩だったわけである。庄内藩・鯖江藩・岩槻藩・上山藩が部隊の全容であった。
「庄内藩」征討に関して、上山藩を例に見ても、慶応4年3月29日付の総督府からの命令は「会津藩」征討への出兵命令であった。ところが慶応4年4月8日になって急遽「庄内藩」征討への命令に変更になっているのである。まさしく歴史の舞台裏、恐るべし……といったところだろうか。

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