慶応4年閏4月29日、奥羽諸藩は〈奥羽の矜持〉表明とも言ってよい「建白書」を議定し、同盟結成の後、これを朝廷(太政官)に上奏すべく仙台藩重臣坂英力(さかえいりき)、太田盛(おおたさかり)、米沢藩士庄田総五郎(しょうだそうごろう)、宮島誠一郎(みやじませいいちろう)の4人を、5月26日、京師に走らせている。だが、「既に東征軍が出発しているため時期遅し」とした仙台藩内討幕派の参政三好監物(みよしけんもつ)の執拗な抑止にあい、結局朝廷に届けられずに終わったと伝えられている。にもかかわらず、柳河春三(やながわしゅんさん)によって発行されている木版冊子体の新聞「中外新聞」に「建白書」の内容が大々的に掲載され、薩摩・長州勢を大いに憤慨させたというのだ。これが一般的に記述される「建白書」の顛末である。
ところが、その「建白書」の行方について、米沢市上杉博物館によって2008年に刊行された『上杉伯爵家の明治』の33頁の記述をみると次のようにある。「(奥羽越列藩同盟の特使は—筆者註)塩釜から船で江戸に向かいましたが、品川沖には榎本武揚が率いる幕府の軍艦〝開陽〟や〝回天〟など健在でした。さらに京都まで上るのは困難であると正使2名は仙台に引きあげましたが、誠一郎は仙台藩の副使とともに勝海舟を訪ね、嘆願書の不備を添削の上、上洛の便宜を図ってもらい、土佐藩主山内容堂を経て建白書を朝廷に提出することができたのです」と。
このように、白石を出発した「建白書」は、紆余曲折を経たのち、最終的には朝廷(太政官)に届いたとあるのだ。通説とは真逆の報告である。宮島誠一郎の「戊辰日記」が根拠になっていると考えられるが、いずれが〈史実〉であるのか、筆者にはとても判断などできない。だが、ひとつ思うことは、奥羽諸藩の総意としてまとめ、脱稿した「建白書」の内容を、副使という立場の人間が旅の途中で「不備を添削」というかたちにせよ果たして勝手に改稿できるものかどうか(当時のモラル=士道から考えても)、やはり疑問も残る。奥羽同盟に対して否定的だった勝海舟が絡むとなると、よりいっそう不分明となっていく印象がある。
考えてみると、同じ事実について異なった複数の記述がなされることは、〈歴史記述〉においては頻繁にあるように思える。〈史実〉って不可知なのだろうかとさえ思えてくる理由はそこにもある。