最近、柄でもないのに人前で話す機会が増え、自分としては何となく複雑な気持ちである。
もちろん機会を与えて頂いて、そこで伝えたいことを何の制約もなく自由に喋らせて頂けるわけだから、確かに嬉しいシーンには違いない。だが、心のどこかに「専門家でもない自分が、話の内容にどこまで責任をもてるのだろうか」という自省心も渦巻いていることも事実なのである。それでも、オファーに応じてひょこひょこ出掛けて行くのにもまた自分なりの理由がある。自分のやっていることに関心を持って下さって、わざわざ声をかけて頂いている意味の重さを感じているからである。それはレベルの問題ではなく、礼儀の問題なのではないか。さらに、話の内容については「精一杯準備し、誠実に」をモットーにしていけば、ぎりぎりのところで許して頂けるのではないかと秘かに考えているからである。
もっと正直に言えば(結構遠慮気味に言っても…)さまざまな経験の中で「専門家たちの研究といえど、論文としての形式美を整えるテクニックは確かに巧みだが、必ずしも完全無欠なものとは限らない」という素朴な疑念が生まれ出たことも手伝っている。
逆の視点から言い換えてみてもいい。自分の内面にも、様々なことを、色んな人に、訊いてみたい欲求が数えきれないほどあるのも事実なのだ。たとえば「あの事について、あの人なら、今、どう考えているんだろう」と、「話し手」と「聞き手」の立場を置きかえて考えてみると分かり易いかも知れない。すると、そういうコミュニケーションの形というか、関係の在りようや姿勢が、これからの硬直化しつつある時代にとって、大切な、そして必要不可欠な行為になって行くように思えてならないからでもある。