勝海舟、もう一つの顔

倒幕派に人脈を持ち、それゆえ維新後、偉人として幻想を纏い続けることになった人物=勝海舟。徳川幕府の禄を食む幕臣でありながら、幕府内部の重要な情報を倒幕派にリークした人物でもある。「禁門の変」において御所に大砲を撃ち込んだ長州藩を征伐しようとした通称「長州征伐」の第二次決行を前にして、勝海舟は、幕府内で第一級の機密事項であった小栗忠順提言による「郡県制構想」を薩摩藩に漏洩している。それは歴史的に重要な意味を持つことになる。その情報を得た諸藩は、もし、幕命に従って長州征伐に出兵し戦功を挙げても、いずれ「自藩」の存続が危うくなるのであれば積極的に戦うことはむしろマイナスになるとして、士気が上がらず消極的に対処するに至ったからだ。長州征伐の煮え切らない結果は、その要因と深く結びついているのである。以後、幕府の弱体化は止めようもなく進行し続けることにも繋がってしまうわけである。 (原田伊織著『明治維新という過ち』等参照)

小栗忠順提言の「郡県制構想」は、国体改造への百年の計として、幕藩体制の諸矛盾を止揚すべく立案されたきわめて先進的な構想であった。藩の枠を取り払い、新たな国体の在りようを模索していた起死回生の策であったにも関わらず、勝海舟の愚行により、逆のベクトルとして、改革へのエネルギーを弱体化させる要因として作用してしまうことになったのである。その後の武力倒幕の思想は、解明派幕臣たちがすすめようとしていた幕藩体制から近代国家へのソフトランディングの道を断ち、ひたすら軍事優先の富国強兵へと突き進む事となったことは周知の事である。

そればかりではない。吉田松陰を師と仰ぐ尊王攘夷派(倒幕派)のみならず、なんと勝海舟も文久年間から吉田松陰と同じように〝海外経略の雄図を抱き、海軍を拡張して朝鮮を経略し、そこに有力な根拠地を設けて次第に「支那」に及ぼし、覇を東洋に称して欧米諸国と対峙する〟といった海外拡張思想を講じつつあったようだ(有賀定彦著『「北進」論と「根掠地」論』長崎大学)。

特筆すべき傑作は、咸臨丸神話。勝海舟は「日本人初の太平洋横断」を成し遂げた人物として伝えられている。しかしそれは、慶長15年(1610)に徳川家康がウィリアム・アダムス(三浦案針)に建造させた帆船で田中勝介が太平洋を横断してメキシコへ渡り、翌慶長16年(1611)に帰国している。この3年後に伊達政宗が派遣したのが、支倉常長。やはり太平洋を横断してメキシコへ渡り、その後スペインへ渡り―ローマ法王に面謁して、ふたたび太平洋を渡って、5年がかりで帰国している。さて、話を戻すと勝海舟が乗った咸臨丸は遣米使節団を乗せたポウハタン号の単なる護衛艦。本艦ポウハタン号には井伊直弼が派遣した正使:新見豊前守、副使:村垣淡路守、目付:小栗豊後守ら総勢77名が搭乗していた。この重要な事実は明治維新史から不思議にも削除されているのである。さらに悲しい事に、ブルック大尉とジョン万次郎がいなかったら咸臨丸は太平洋のもずくと化していたようで、艦長勝海舟は船酔いでずっと臥せっていたようなのだ。これ以上書くとわびしくなるのでもうやめよう。

後に罪なく新政府軍によって斬首されたラスト・サムライ=小栗忠順。隠遁場所=権太村を新政府軍にリークした人物も勝海舟といわれている。勝は、手腕・能力、胆力そして自らの出自も含め小栗に対して常にコンプレックスを持っていたと伝えられている。明治に入って、政治の舞台裏を知る幕臣たちが次々と没して行く中、比較的長命だった勝海舟(明治32年没)は、日記に何でも真実のように書き込むことができた、と指摘する研究者さえいる。幕府の政務日記類と海舟が残した日記を付き合わせてみると、どうも明らかに嘘と思える矛盾する記述が多いと指摘するものもあると聞く。恐るべし、勝海舟とは実に虚実判然としない人物のようである。

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