鳥羽・伏見の騒乱のあと、江戸城内における重臣会議で薩長軍との徹底抗戦を主張していた小栗忠順は、恭順をきめた徳川慶喜から幕府の職を解かれた。そしてその時点で、「主君が戦わないと言っている以上、これからの戦いにはもはや大義がない」と最終的に徹底抗戦派の誘いを断っている。そのような状況のなか、慶応4年1月28日、三野村理左衛門が小栗屋敷を訪ね、身の危険を案じ「米国へ一時お渡りなさい」と進言している。これに対して小栗は「厚意は謝するけれども、思うところあって、上野国に引き上げる。もしも後年婦女子が苦しむようなことがあったら、その節はよろしく頼む」といって丁重に辞退したという。(大塚秀郎著『小栗上野介忠順年譜』より)
潔く群馬郡権田村(高崎市倉渕町権田)に隠遁する事を決意した小栗は、慶応4年2月28日、上野国へ向け出立。大砲2門と小銃20挺を従者数人に持たせて帰郷したのは、隠遁の他に意味はない。が、銃砲の所持に叛逆の意志ありと見られ、さっそく高崎藩など3藩から詰問の使者が来た。しかし実弾は見当たらなかった。たった2門の大砲で抗戦するような軽率な人間でないことは、小栗を知る者には明瞭なことであった。三藩の使者は納得して帰ったと伝えられている。
だが、新政府軍(とりわけ東山道鎮撫軍)は違った。直前まで幕府の要人であり、フランス式3兵伝習所の生みの親である小栗は、長州や薩摩にしてみれば、敵の中の敵である。岩倉具視の配下である若輩の原保太郎(園部藩士)は、東善寺を住まいとし日々を送っていた小栗を、取り調べもなく、慶応4年(1868)閏4月6日、烏川の水沼河原(群馬県高崎市倉渕町水沼)で処刑することを命じ、安中藩士浅田五郎作に斬らせたのだが、手向いもせずいささかも動じない小栗の威に怯んだのか、二の太刀でようやく首が落ちたという。
その後、原保太郎は、薩長が憎んでいた小栗を処刑した部隊の指揮官だったというただそれだけの理由で(原自身が斬ったと吹聴して歩いたとの記録もある:浅田五郎作の外孫の証言)新政府内で名声を克ちえ、山口県の知事に20数年も居坐り、さらに北海道長官となって巨財を成し、のみならず貴族院議員となり89歳まで栄華の中に生きた。神道無念流の練兵館塾頭、維新史料編纂会員などもつとめている。薩長閥たる明治政府のやりたい放題の実相の一齣である。モラルについて考えさせられる話でもある。小栗、享年42。戒名;陽寿院殿法岳浄性大居士。
《資料1》小栗追討に新政府が差し向けた兵800とのこと。当初奥羽鎭撫に差し向けた兵が600であったことに比較してもその意味する所は大きく深い。
《資料2》三野村理左衛門とは、文政4年(1821)、庄内藩士関口松三郎の次男として鶴岡にて生まれ、幕末から明治時代初期に活躍した三井組の大番頭である。元の名は利八。三井財閥の中興の祖に他ならない。