去る2月13日(土)に開催された長南伸治氏(公益財団法人上山城郷土資料館学芸員)による「上山城古文書講座:金子清邦宛書状を読む」において、上山藩の戊辰戦争に関するきわめて重要な資料が配布された。まずはテーマの金子清邦へ宛てた仙台藩士一条十郎の書状そのもの。その一条十郎とは仙台藩内においては攘夷派の人物として知られ、金子清邦に宛てたその文面によって、金子清邦が小生の推論に沿う過激な攘夷思想の持ち主であったことがいっそうあきらかなものとなりつつあること。もうひとつは、明治29年(1896)3月14日に開催された史談会での一条十郎の発言の抜粋が記載された資料の提供である。本講座のメインテーマを補完する「おまけ」として掲載されていたものだが、小生にとっては極めて重要な資料の一つとなったものである。次のようなものであった。
荘(庄)内と上山両家の使者ハ至て御取受か悪いので、御三卿(鎮撫総督 九条道孝、副総督 澤為量、参謀 醍醐忠敬)ハ無論参謀方(薩摩藩 大山格之助、長州藩 世良修蔵)も御面会ないのて、両藩の使者共か弊藩(仙台藩)の家老共へ来て周旋して貰ひたいと云ふので、鎮撫使方御用係三好監物を以て参謀を問合せましたらハ、昨年十二月荘(庄)内上山ハ江戸七曲の薩摩藩邸を焼討した事がありましたので、大山参謀か受の悪いのて大山参謀ハ弊藩(薩摩藩)の人数て討つてしまふなとと云はれたさふてあります。
そもそも、戊辰戦争における奥羽で最初の砲声となった庄内藩征討でさえ、新政府軍による正式な宣戦布告はなく、参謀大山格之助の独断と思われるふしが多々あるわけだが、回顧談の史談会速記録の記事とはいえ、可能性として同時に上山藩征討も大山格之助の脳裏にあったという事になる。
ところで『史談会速記録』(明治25年/1892から昭和13年/1938まで続いた例会の談話を掲載した史談会の機関誌)は全45巻、古書店での現在的な相場は60万円超という、とても個人的に入手できるシロモノではない。講座の資料という形ではあってもその片鱗を覗ける事はきわめてありがたい事である。