検証《戦乱、ついに奥羽へ》の流れ その1

慶応4年(1868)1月6日に鳥羽・伏見の騒乱が収束すると、新政府は同月10日「朝敵リスト」を公示、会津征討の準備にとりかかる。この流れをもって《戦乱、ついに奥羽へ》の端緒ということになる。

◎主な奥羽諸藩の動向
1月17日 仙台藩に会津征討命令 その後一旦撤回
1月20日 仙台藩に改めて会津征討命令
1月25日 米沢・秋田・盛岡藩にも同命発令
2月 9日 東征大総督府設置
2月26日 奥羽鎭撫総督府の陣容決定⇒設置
3月10日 奥羽鎭撫総督府一行京を出発
3月18日 奥羽鎭撫総督府一行仙台寒風沢に到着、本営を仙台藩校養賢堂に置く
3月26日 奥羽鎭撫総督府 仙台藩に会津征討の進捗状況を質す
3月下旬頃から仙台藩・米沢藩の間で会津救済の協議がはじまる

◎奥羽鎭撫総督府の陣容の変化について

2月26日、最終的に朝廷より任命されたのは以下の陣容であった。

総 督:沢為量(公家)  ⇒ 九条道孝(公家)
副総督:醍醐忠敬(公家) ⇒ 沢為量(公家)
参 謀:         ⇒ 醍醐忠敬(公家)
下参謀:黒田清隆(薩摩) ⇒    大山格之助(薩摩)
下参謀:品川弥二郎(長州)⇒    世良修蔵(長州)

見てのとおり当初は総督:沢為量、副総督:醍醐忠敬、下参謀:黒田清隆(薩摩)と品川弥二郎(長州)であったが、その後、総督に九条道孝が着任し、沢は副総督、醍醐は参謀へとそれぞれ降格。さらに両下参謀の辞退をうけ、理由は分からないが前述のような大幅な変更となったのである。それが奥羽の悲劇へとつながって行く要因になったと考えられる。

◎戸田主水が書いたとされている総督府内部告発文書

いろんな資料で指摘されているように奥羽鎭撫総督府の下参謀であった大山格之助ならびに世良修蔵は奥羽鎭撫総督府内部でもあまり評判の良くない参謀だったようである。以下のような内部告発もあったと言われている。
「殿下東下以来、大山、世良両参謀のなすところを観察するに、殿下のために痛嘆せずんばあるべからざるものあり…略…鳴呼王者の兵は拒むものは之を討ち降るものは之を容ると、不日会津罪を謝して降るあらば殿下宜しく顧慮し給はずんば、啻(ただ)に人望を失ふのみならず、薩長の私怨私闘に駆使せらるゝの嫌疑なしともせず、啻に嫌疑を受くるのみならず将に為すべからざるに至らんとす…略…速かに鎮撫の御成功あらんことを冀願の至りに堪ふるなし、誠惶誠恐頓首血再拝」(「東北戊辰戦争懇話会報・第三号」より)

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