内村鑑三の脱亜批判

鎖国政策にピリオドを打ち開国へと舵を切ろうとしていた幕府の政策を「売国」「亡国」政策として激しくののしり、大老井伊直弼の暗殺をはじめ外国人殺傷や領事館焼き打ち、開国派公家や幕臣に対する凄惨なテロ行為を重ねていた攘夷勢力(水戸脱藩浪士・薩摩長州の激派)が、武力倒幕の謀略=戊辰戦争の勝利を経て政権を奪取するや、一転、「文明開化」だの「鹿鳴館」だのと、こぞって脱亜入欧=欧化主義者に変節して行った。この歴史上稀にみる極端な変節をその思想的な流儀も含めて不思議に思っていたが、同じようなことを内村鑑三がなんと明治30年にズバリ書いていた。以下引用してみたい。

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◎内村鑑三の脱亜批判

余輩は思う、新日本は薩長政府の賜物(たまもの)なりというは、虚偽の最も大なる者なりと。

開国、新文明、封土奉還〔版籍奉還〕は、一として薩長人士の創意にあらず。否、彼らは攘夷鎖港を主張せし者なり、しこうして自己の便宜と利益のために主義を変えし者なり、すなわち彼等は始めよりの変節者なり。

新文明の輸入者とは、彼らが国賊の名を負わせて斬首せし小栗上野介等の類を云うなり。真正の開国者とは、渡辺崋山、高野長英等の族を云うなり。

封土奉還すら、木戸、大久保等の創意に出でしにあらずして、姫路の城主酒井雅楽頭〔忠邦〕の建白に基けりと伊藤博文侯は報ぜり。

薩長人士は、世界の大勢と日本国民の意向とに乗ぜしのみ、新日本は文明世界と日本国民との作なり、開港和親は、みな旧幕政府の創意なり、この点に関して、われら日本人は薩長政府に一の恩義なし。

この内村鑑三の文章は、明治30年(1897)4月22日の『万朝報』紙上に、「大虚偽」というエッセイで発表したもの。

 

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