今回の戊辰戦跡めぐりは、奥羽鎭撫総督府下参謀・世良修蔵(長州藩士)暗殺事件に加わった仙台藩士・姉歯武之進に照準を定め、昨日(9月4日)、墓参を果たすことが出来た。金成(かんなり)インターを下り、ナビ画面を信じながら、もうすぐ刈りとりの時期を迎える黄金色の稲穂がつづくのどかな田園地帯を走り、瑞満寺という立派な寺に到着。インターを下りてからはナビがなければ到達できたかどうかわからない、そんなこころ細い小径を左右に曲がりながら30分ほどの旅路であった(上山を出発してからはトータルで約3時間弱といったところ)。帰りはせっかくなので、観光施設のある登米市(とめし)登米町(とよまちょう)まで足をのばし、北上川の雄大な流れを眺めてきた。好天にめぐまれ今回もまた充実の一日であった。お天道様に感謝である。
さて、ご存知のとおり世良修蔵の暗殺は奥羽の幕末を決したと言っても過言ではない大事件であった。それにはさまざまな要因が折り重なっていたが、直接的には奥羽諸藩の総意をもって総督府に提出した会津救済嘆願書を、世良修蔵が強硬に、しかも一方的に、拒絶したことに端を発していた。さらに付け加えるなら、この展開は奥羽諸藩にとって予想外の出来事で、大きな衝撃であったようなのだ。
米沢藩士宮島誠一郎の『戊辰日記』(米沢市史編集資料第28号)閏4月19日、つまり嘆願書が総督府からの正式な通告を待たず世良修蔵に拒絶された2日後の項に、奥羽諸藩に動揺が走った様子が記されている。書き出しは「湯ノ原駅エ参リ候処」、つまり、宮島誠一郎が羽州街道の宿駅湯ノ原で目撃した光景の数々である。その一部だけでも紹介してみたい。
「両人英気勃発、我等ノ言ヲ回顧セズシテ、駕ヲ飛バシテ去ル」さらに続けて「一士袴ヲカラゲ駕ニモ不乗息ヲ切テ駈ケ来ル。仙台藩士横田官平ナリ…略…怒気満面、両眼血ヲ注グ如シ」等々、原文のままである。前者は、米沢藩士江口腹蔵と上山藩士増戸武兵衛の早駕篭に宮島がバッタリ出会ったときの様子。江口と増戸は、新庄にいる大山格之助と秋田(能代)にいる沢為量を分断する作戦行動のため、庄内(鶴岡)へ向かって行ったのだという。また後者は、湯ノ原に出張中の会津藩家老梶原平馬に、嘆願書が拒否された旨の報告に向かう仙台藩士横田官平の様子である。さすがにどちらにも緊迫感がみなぎっている。
「書中疎には候えども、ご覧の上はご投火下されたく候也」で結ばれる大山格之助(薩摩藩士:この時、新庄に在って庄内藩征討の指揮を執っていたもう一人の鎭撫総督府下参謀)に宛てた世良修蔵の密書の内容=「一旦総督が受け取った嘆願書を返すわけにもいかないので、一応京都へ戻って、奥羽の実情をしっかりと報告し、ついては『奥羽皆敵』と見なし、逆襲の大策を練りたい」に奥羽諸藩は激怒。ついに白石列藩会議に臨んだ14藩は世良修蔵の暗殺を計画し、実行に移す運びとなる。世良の思惑は、まず都合よく奥羽諸藩に会津(松平容保)を討たせ、その後一気に奥羽を強権的に恭順させようというものに映ったに違いない。仙台藩主伊達慶邦は世良の抹殺を決断、仙台藩から8名、福島藩から3名を選び、準備にとりかかったのである。選ばれた者は次の11名であった(伊達慶邦の関与はなかったとする説もあり)。
【仙台藩士】 瀬上主膳軍監姉歯武之進、櫻田敬助手投機隊田邊覧吉、櫻田敬助手投機隊赤坂幸太夫、参政書記 松川豊之進、参政書記末永縫殿之允、瀬上主膳書記岩崎秀三郎、監察小嶋勇記、軍監大槻定之進【福島藩士】 用人鈴木六太郎、目附遠藤條之助(介)、 番頭杉沢覚右衛門
かくして、慶応4年(1868)閏4月20日の未明、世良修蔵は福島の旅籠「金沢屋」にいるところを捕縛され、姉歯武之進の寄宿部屋で尋問を受けた後、近くの河原にて斬首されたと伝えられている。
姉歯武之進は天保15年(1844)黒川郡大松沢の仙台藩士大河内頼存の弟として生まれ、元服(15歳)を終えると同じく仙台藩士姉歯忠三郎の嗣となる。戊辰戦争では仙台藩瀬上隊の軍監兼小隊長として参戦し、主に福島戦線、とりわけ白河城の攻防戦にて勇戦したとされている。しかし、慶応4年(1868)5月1日、同地にて被弾し戦死している。享年25であった。
なお、顕彰碑(写真右)には下記の碑文が刻まれている。
仙台藩軍監烈士 姉歯武之進顕彰碑
慶応四年一月薩摩長州を主力とする倒幕軍と旧幕府側軍との間で開始された戊辰戦争は奥羽にも波及し 姉歯武之進は軍監として瀬上隊に配属された 當時謝罪降伏の嘆願書を提出していた會津藩を奥羽の諸藩は諒承し 鎭撫総督府へ許容を願い出たが 参謀世良修蔵はこれを却下し会津の討伐を厳命す やむを得ず諸藩は盟約を結び横暴な世良や薩長藩に抵抗し 武之進は藩命により世良を処断した 五月一日白河口の激戦で武之進は壮烈な戦死をとげている
奥羽列藩は朝廷を尊崇し恭順であったが明治以降薩長側では奥羽を朝敵と誹謗して来た 百二十一年を経た戊辰の本年に當り姉歯武之進を顕彰し奥羽の汚名を雪辱する次第である
昭和六十三年戊辰年 五月一日日 建立者 東世舗道株式会社 社長 佐藤 忠太
撰文 石越病院長 姉歯 量平