上山温泉発見についてのノート・1

かつて「羽州上山城下温湯記発見!」という記事(クリックでお読み頂けます)を、2015年4月2日付の当該ブログで書かせて頂いた。そこで、元禄15年(1702)時点で不明とされていた上山温泉発見の端緒が、明治35年(1902)脱稿の『上山見聞随筆』(菅沼定昭著)において、《鶴脛温泉の草創は長禄2年(1458)始めて発見す。白禿山は其源にして、山王山の麓に湧出るなり。そのかみ浄光寺開祖月秀和尚、日々鶴の下り来り、足痛にて其の脛をひたし温めしを見て、温泉の湧出ることを知り、初めて開きたるによりて、鶴脛の温泉と名づけし由云伝ふ》と記述されるに至る。いかなる裏付け資料によって、またどのような経過を経て記述されるに至ったのか不明で、ずっと不思議に思っていた。そこで、その後少しずつ折りをみて上山温泉の発見にまつわる資料をあさってみることにしていた。現在の定説のバックボーンになっている『上山見聞随筆』だが、その根拠は脆弱で、必ずしも確定したものであるとは考えにくい。理由は「羽州上山城下温湯記」のみならず、特に気になる資料が2つあった。1つは鎌倉時代末期の正中2年(1325)に造立された「山王山板碑」に関連する諸々の資料のこと。そしてもう1つが室町時代後期にあたる大永元年(1521)に書かれた「湯殿山大権現」という古文書の文中に書き留められている「上山千石八幡湯前乃薬師」という文言である。

まず、1つ目の「山王山板碑」周辺から見えてくることについて、筆者なりにいろんな資料からまとめてみると次のようになる。

鶴脛温泉の源泉地は、現在湯町の薬師堂下の「鶴の休み石」附近とされている。この場所は俗に山王山といわれる丘の南端に当たる。この山王山の頂上に「正仲(ママ)2年乙丑3月10日」造立の大日板碑があり、「孝子敬白 右志者為 慈父母霊也」と彫ってある。つまり板碑は親の菩提を弔うために子が造立した供養の塔婆である。正中2年(1325)といえば鎌倉時代の末期にあたり、上山市が温泉発見期とみなしている長禄2年(1458)より133年前に当たる。考えてみるとこの板碑の存在はその周辺に定住している住民がいた証でもあり、清光院記録に拠れば、清光院の前祖で羽黒派山伏法爾坊が、文永元年(1264)よりこの山王山に居住していたとも記されている(『上山の湯と宿』湯上和気彦著より)。とすると温泉源泉地点とこの山中までは200メートル足らずの距離であるし、源泉地は当時谷川の中に湧出しており、住人たちはその谷川の水を利用したはずである。それらの人々が長年の間、温泉湧出に気づかなかったとすれば不自然である。もし月秀上人説にこだわるとすれば、それ以降突発的な地殻変動などによる自然環境の激変によって湧出し始めたことになり、なんとなく不自然で突飛な印象を受ける。このことから、河合孝朔著『上山温泉誌』『山形県鉱泉誌』(山形県温泉協会刊)等に記されている「上山温泉正和年間(1312〜1316)発見」説もあながち否定出来ないものであることがわかる。

次に、古文書「湯殿山大権現」から見えてくる上山温泉の情報だが、これが現在の地名を浮かべながら読むと極めて悩ましい。(本題から離れるが、「上山」という地名が文字として記された最古の文書が「湯殿山大権現」であるらしい)では、みてみよう。

上山に温泉が存在していることを明記した最も古い文献は、片桐繁雄氏のご教示によると「湯殿山大権現」が最初であるらしい。これは巻頭に「歳次行月之並年号ハ永正18年太歳辛已之歳」とあることから、室町時代後期にあたる1521年(8月23日改元、大永元年)に書かれたものであることがわかる。ただし、原本は現在不明となっているが、延享5年(1748)に写筆された資料は現存しているのだという。この古文書に上山温泉のこととして読める記述が一ヶ所だけ存在している。「上山千石八幡湯前乃薬師」がその問題の記述である。つまり、誰がいつ発見したかという問題とは別に、永正18年(1521)8月23日以前の時点ですでに上山に温泉が湧出していたという事実を書き留めていることがわかる。ただし「千石」が現在の「仙石」でないことは位置的に明らかと思えるので「千石」という地名がかつてどこかにあったのだろうか。また「八幡湯」とはどこを示しているのか。八幡を八幡宮として読んでしまえば当時存在していたと考えられる古い八幡宮(平安時代の寛治7年(1093)創始)は宮脇ということになりこれまた位置的に合致しない。ただし、現在の八幡町にあった湯という読み方でいけば湯町と八幡町はそう離れている訳ではない。もちろん現在の地名が室町後期から変わることなく使用されていたとすればだが…。そして「薬師」は現在湯町にある「薬師堂」のことなのか、不明な点は数多くあり、これから解明していかなければならないことが山ほどある。

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