標題の2項は、幕末史の展開について深掘りする場合の最重要なテーマである。近年、『消された「徳川近代」明治日本の欺瞞』や『真説幕末動乱史~狂気の勤皇思想がもたらしたもの』や『小栗上野介抹殺と消された「徳川近代」〜幕臣官僚がデザインしたもう一つの維新』などのユニークな幕末維新論を次々と上梓し続けている原田伊織氏の健筆ぶりには目を見張るものがある。氏の筆力は言うまでもないが、従来の幕末論とは一線を画した視点、それを裏づけるための豊富なフィールドワークは注目に値する。そればかりではない。氏の文章は極めて読みやすい平易な表現で、いわゆる旧来のアカデミシャンたちの硬質で文脈を追うだけでも大変な文体とは本質的なところで異なり、血も涙もというと確かに顰蹙をかいそうだが、理性をも含めた生きている人間の情感をしっかりと行間に残している文体なのだ。氏の文学的素養がいい意味で功を奏しているのだろう。
さて、前書きが長くなってしまったが、「わが国の近代化」についての論考を紹介してみたい。少数ながら慧眼の論客は以前(明治期)から存在していたことを忘れてはなるまい。ここではその代表的人物と考えられる内村鑑三が記したことばを紹介しておきたい。
「余輩は思う、新日本は薩長政府の賜物なりというは、虚偽の最も大なる者なりと。開国、新文明、封土奉還〔版籍奉還〕は、一として薩長人士の創意にあらず。否、彼らは攘夷鎖港を主張せし者なり、…中略…すなわち彼等は始めよりの変節者なり。新文明の輸入者とは、彼らが国賊の名を負わせて斬首せし小栗上野介等の類を云うなり。…中略…開港和親は、みな旧幕政府の創意なり、この点に関して、われら日本人は薩長政府に一の恩義なし。…以下略」 (コラム「大虚偽」明治30年4月22日付『万朝報』より)
次いで「尊皇(勤王)」の問題についても、「倒幕の密勅」が倒幕勢力による禁じ手中の禁じ手といってよい偽勅であったことや、孝明天皇病死説がいよいよ岩倉具視らによる暗殺説にとって代わられつつあることをみても、呼称通りの「尊皇」や「勤王」など実態ではなかったことが明らかになりつつある。これまた現在の研究を見るまでもなく、維新史の編纂に携わっていた人たちにさえ疑念があったようなのだ。昭和28年千代田書院から出版された蜷川新著『維新正観』を繙いてみる。
「孝明天皇の暗殺については、永く在職した維新史料編纂係の人は、いずれもよく知っていた。植村澄三郎氏は、同係の一人であったが、此の事件に関し筆者に語って云うに、『岩倉は、この暗殺を行なった人であるが、初めは失敗し、二回目に成功した』と。由来世人は、案外よくこの事件を知っているのである。…中略…植村澄三郎氏は、維新資料編纂の総裁であった金子堅太郎氏と一日ひそかに語り、『従来の虚偽史はそのままにしておき、総ての極秘の事実は、これを別の書物に編みて、秘密に、宮内省の倉庫に納めておくことにしたい』と、申し出たと筆者に語ったことがある」。
この会話に登場する人物は次の通りである。 蜷川新/日本の法学者、外交官、大学教授。専門は国際法。日本赤十字社の顧問なども歴任。植村澄三郎/維新史料編纂委員。金子堅太郎/『明治天皇紀』編纂局総裁、維新史料編纂会総裁を経て、帝室編纂局総裁。日露戦争時、ルーズベルトとの間で巧みな対米交渉をこなした敏腕の外交官。いずれも虚言を弄するような軽々しいメンバーとはとても考えにくい。前掲の会話の内容がもし真実としたら「尊皇攘夷」、そう「尊皇」を標榜する勢力が孝明天皇を暗殺したことになる!
さらに近年、仙台在住の医師橋本博雄氏が、現在国定説となっている孝明天皇病死(痘瘡)説を、当時診療に関わった御典医たちの残した日誌や診療記録を丹念に辿り、その病状の変化を医学的に分析検証したうえで否定的な結論を論文「孝明天皇と痘瘡」(『醫譚』復刊112号;2020年112月)にまとめた。それに着目した直木賞作家の中村彰彦氏は、近著『孝明天皇毒殺説の真相に迫る』(2023年8月25日刊:中央公論新社)でその論文を紹介し、孝明天皇に置毒(薬湯にヒ素を混入)した女官を追っている。中村は以前にも『幕末史の定説を斬る』(2015年)で同じテーマに挑んでいたが、その時点では橋本博雄氏の決定的な論文はまだ発表されていなかった。いよいよ長かった孝明天皇の死をめぐる論争も最終局面を迎えたような観がある。
ほかにも恣意的に隠されてきた史料の発見や史実の再評価が相次ぎ、幕末史の大幅な書換えも視野に入ってきているように思われる。本当の幕末論はこれからなのだろう。