墓参りと〈無縁仏〉

午前中、間断なく小雨が降っていたが、菩提寺である浄光寺へ彼岸の墓参りに行って来た。天候具合、時間帯のせいもあってか、さすがにあまり人影はなかった。自家の墓、親戚の墓の数カ所を廻り、最後に、〈無縁仏〉を一カ所に集めたエリアに移されてしまっている「山村求馬(弘章)」の墓をお参りし、帰って来た。
「山村求馬(弘章)」は、幕末の慶応四年(1868)七月、戊辰戦争において秋田方面へ出陣したときの上山藩軍の〈総督〉。悲運にも、及位(現在の真室川町旧及位/のぞき)近郊で戦死した人物である。

山村求馬-墓-小
調べてみると、宝永三年(1706)、山村八太夫の三男・竹太(幼名)が岩井家の養子となり、その後、正徳四年(1716)、五代目・岩井幸右衛門の家督を相続、六代目・岩井伝太夫を名乗ることになる。このように史料(岩井家由緒書扣)によると、山村家はわが祖先と浅からぬ縁があるようなのだが、幕末期における山村家の当主が「山村求馬(弘章)」にあたっているらしい。
三河(現在の愛知県安城市藤井町)を出自とする藤井松平氏が、備中庭瀬から羽州上山に移封となるのが元禄十年(1697)であるので、山村家とわが家が姻戚関係をもつことになるのは、上山に移って間もない頃ということになる。
それにしても、上山藩の家老格の山村家直系の人物の墓が、現在〈無縁仏〉となって、墓地の一角に静かに佇んでいるのである。じつに寂しく、得も言えぬ人の世の無常をも感じさせられる光景と言ってよい。

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