奥羽越列藩同盟の理念

奥羽越列藩同盟の理念といえば、そんなものあったの?って返ってきそうだ。明治新政府がつくりあげた幕末維新史では「遅れた地方の単なる守旧派」「新しい時代の胎動に鈍感な諸藩の同盟」「徳川幕藩体制に殉じるだけの保守同盟」ということになる。だが、はたしてそうだったのだろうか?

列藩同盟軍事局副頭取の任にあった仙台藩士玉蟲左太夫は、日米修好通商条約批准書交換の遣米使節団のひとりとしてアメリカの「共和政治」「産業革命」「近代的人間関係」を驚きを持って見聞し、帰国した人物であることに、私たちはもっと注目していいはずである。

遣米使節団の実質的リーダーであった幕臣小栗忠順が、渡米中に現地で開いていた「勉強会」に玉蟲左太夫も参加し、これからのわが国の政治・経済の在りようについて、そのヴィジョンを模索していた開明派でもあった。そんな藩士を仙台藩は、帰国後、藩政改革の推進者として藩政に迎え入れていたほどである。

しかも、藩校養賢堂で学んでいた時代の恩師大槻磐渓は、奥羽列藩同盟結成のため東奔西走していた仙台藩のイデオローグにほかならず、玉蟲は大槻の影響をかなり受けていた。会津藩救済をめぐる奥羽諸藩の連携、その後の同盟結成までの大槻の実践は、ある意味玉蟲の思想に厚みを加えていたのだろう。

明治天皇(幼帝)を恣に利用し、奥羽越諸藩に対してやりたい放題、偽勅もふくめ横柄な態度で勅命を乱発してきた「薩長政権」=新政府。奥羽列藩同盟を「北方政権」として、そんな「薩長政権」=新政府に対峙させることを通じ、「共和制」的な政体の実現に向けて理念化を模索していた玉蟲左太夫の存在はもっと評価されていいのではないだろうか。

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