大正5年12月24日の出来事

大正5年(1916・第一次世界大戦の年)12月24日、上山小学校雨天体操場において、「薩摩藩邸焼き討ち事件」と「戊辰戦争」における上山藩「殉難者」追悼の50年忌法要ならびに遺品展示が行なわれている。そのときの180名に及ぶ参列者名簿が上山城郷土資料館に収蔵されており、このたび申請し、閲覧と撮影を許していただいた(写真参照)。

上山町殉難戦死者五十年忌*

それを見てまず感じるのは、幕藩体制が崩壊して50年を経過した社会の明らかな構造変化である。幕藩体制下では、旧藩士たちのヒエラルキーが歴然と表現されるしかなかったこの種の名簿だが、大正5年の時点ではそれがほぼ解体し、実業人・政界人の露出が多くなっていることがわかる。一例を挙げてみると「法會費収支決算」として記載されている「収入の部(香典)」の筆頭はダントツ「5,000円 高橋熊次郎」で、50年前上山藩を領していた旧藩主「松平信庸」は1、500円で13番目に記されている。

それぞれ再起を果たした旧藩士の次代当主たちの名も散見されるが、かつての分限帳のような格付けとはもはや無縁である。上山にとどまった者たちはもちろん、ポジションを失った多くの旧藩士たちは新たな職や活路を求めて東京や仙台に移り住み、家の再興を図るべく奔走していた労苦は並大抵ではなかったろうと推察される。一方では、それまで社会の前面に出ることを抑えられていた人々が、新しい世の在りように夢や希望を見出し、精力的に活動を開始した活気も、傾向としてその人名簿の記録から伺える。

これは歴史的な変化として、身分固定の無化が少しずつ進み、流動化現象のなかでいわゆる平準化へのプロセスにあり、上山においても封建遺制が徐々に消失して行く状況を結構リアルに反映した貴重な資料となっているということでもある。

このような貴重な文書や冊子が、まだ読まれずに相当数眠っていると考えると、上山城郷土資料館はまさに上山市における「歴史資料の宝庫」といえる存在であることを改めて知る。そしてさらに、このたび久しぶりに刊行された「上山城収蔵資料品目録」の意義も、歴史資料への入口として計り知れないものなのである。

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