幕末動乱の最中(鳥羽・伏見の騒乱時)、岩倉具視の思いつきで「錦の御旗」が打ち立てられ、それに恐怖した徳川慶喜は江戸へ逃げ帰ることとなった。これが一般的な言われ方として残る「錦の御旗」にまつわる当時の状況である。
その「錦の御旗」についておもしろい記事を見出したので、以下紹介しておきたい。
「錦旗は承久の乱に後鳥羽上皇より10人の大将に賜り官軍の標となされ後元弘の時後醍醐天皇之を用い賜い錦旗に反抗する者を総て賊と呼るる習俗なりしに室町以降絶えて其の必要なく朝廷にも其御備え無しと見えたり…略…正月3日(慶応4年=引用者註)伏見の衝突が京都へ聞こえしや直ちに4日に仁和寺宮を征討将軍に任ぜられ長藩製作の錦旗と節刀(天皇から出征の将軍に下賜され、全権を委任するしるしとした刀=引用者註)を授けられ…略…錦旗は縦令い秘密に奇兵隊の手に於いて制作せられ尊重するに足らざるも一たび皇族の手に帰するに於いては光輝嚇々威厳犯すべからざるものとなり終に《宮さん宮さんお馬の前にピラピラするのは何じゃいな、あれは朝敵征伐錦の御旗じゃ知らないかトコトンヤレトンヤレナ》と唄わしむるにいたれり。
これは『同方会誌』49号(大正8年7月25日発行/限定560部印刷)に掲載された「長藩製作の錦旗」石橋絢彦のほんの一部である。全体の内容を要約しておけば、「錦旗」はすでに慶応3年10月14日の歴史的な偽勅=「倒幕の密勅」が発令された時点で岩倉具視によって発案され、その製作は長州藩の奇兵隊に依頼されていたという。高杉晋作、赤根武人と引き継がれた隊長の任に当時は山縣狂介(後の山縣有朋=引用者註)があった。その山縣の「懐舊記事」第5巻の口述にも、「錦旗」製作の経緯が記されているらしいが、筆者はまだ確認していない。
著者の石橋絢彦氏は、維新時には旧幕府陸軍の兵として上総国で新政府軍に抗戦。その後駿河へ移住し沼津兵学校に入学。工部大学校へと進み灯台建設専門とする技師となる。工学博士。歴史研究にも造詣が深い。