幻の京都守護職

文久年間はテロリストたちを中心に攘夷の熱病が蔓延していた時代。
幕府は〈天誅〉や〈夷人斬り〉と称するテロが横行する京都の治安を守るに京都所司代と京都町奉行だけでは限界があると判断、新たに京都守護職の設置を決断。そして文久2年(1862)閏8月1日、福井藩主松平春嶽(しゅんがく)らの進言もあり、会津藩主松平容保(かたもり)が家老西郷頼母(たのも)の執拗なまでの反対を押し切って、その京都守護職の任に就く。この一件がその後の会津藩の運命を決定づけたことは周知のことである。
ところが、不思議な歴史の綾としか言いようがないが、そのわずか10日前の8月21日に起きた薩摩藩士による英国商人チャールス・リチャードソン斬殺事件、つまり「生麦事件」がなかったら京都守護職の任は薩摩藩と会津藩の両藩に命ぜられ、その後の幕末史全体が大きく変わっていた可能性があった。
公武合体を推進していた薩摩藩が、さらに、幕府と朝廷を結ぶ要職に就くことでいっきに政治の表舞台へと躍り出る好機と捉え、藩主島津茂久(もちひさ)を京都守護職に任ずるよう運動を展開していたのである。しかし、そのさなかの事件勃発により藩主茂久は謹慎処分。京都守護職就任を見送られていたというのである。
まさしく幻の京都守護職の話である。

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