戊辰戦争で各地を転戦し、上山藩の恭順・降伏(慶応4年9月)時、あるいはその前後に郷里に戻ったと考えられる先祖岩井助八の戸籍を調べていて、面白い事がわかった。妻を娶り、明治2年には第一子をもうけているにも関わらず、その戸籍の婚姻に関する事項を読むと入籍「年月日不詳」とある。どうしたことかと戸籍に関する歴史を繙いてみると、いわゆる現在の戸籍に近い様式が「戸籍法」のもとで初めて施行されたのが明治5年とのこと。考えてみるとそれ以前は「分限帳」なわけで、慶応4年後期に最後の「分限帳」が記されて以降、明治5年までは、何もなかったようなのである。つまり入籍「年月日不詳」の意味は、その制度的な〈空白〉を表していると考えてよさそうなのである。