天童織田藩中老・吉田大八といえば、時に「勤王」の代名詞のような存在として語られる。だが、それは明らかに一面的な捉え方に過ぎず、大八の実像を矮小化してしまいかねない表現である。それを裏付ける貴重な資料がある。佐々木忠蔵著『勤王家吉田大八先生』「第14章」より、下に転載してみる。関心をお持ちの方はぜひ目を通して頂きたい。鳥羽・伏見の騒乱後、徳川慶喜と松平容保について述べた吉田大八の所感である。
結論的に言えば「勤王」とか「佐幕」とか、一般的に使われている便利な符牒は、あまりその人物や事象の実像を語らない、むしろ多面的な要素を隠してしまいかねない極めて危うい概念であるということだ。
「徳川御家不容易事件に推移候節、主人竝同役共申談、殊に三百年之御恩澤に奉報度候得共、小家之義力に者難及、志斗(こころざしばかりに)茂(も)と存、閣老小笠原壱岐侯江拝謁相願、斃薩討長之策申上候処、間も無之同侯御退役。……又其節戸田和州侯江拝謁相願、乍不及茂徳川御家其御所置の模様内々相伺候処、上野宮様御登京の由、有栖川宮御下向途中ニ而御行逢、御嘆願の由ニ付、穏便ニ治リ可申由、会津の義相伺候処、御処置模様なし兼候由被仰聞候間、会藩之所、寛典之御処置ニ無之候而は、奥羽両国之人民塗炭ニ落入候間、何卒偏ニ御周旋被下度旨申述置、江戸表迄罷下り候得共、突留(不明)様不承、心底ニ懸リ候間、猶又以書状懇意の者迄頼置候処、何分模様不宜由申来、嘆息仕候」
ここから「吉田大八・異論」が始まる。そんな予感に満ちあふれた資料と言ってよい。