「廃仏毀釈」

ほとんど知られていないが慶応3年(1867)12月9日の軍事クーデター「王政復古」(岩倉具視・西郷隆盛・大久保利通らの謀略)のあと、新政府によるもう一つの誤謬が進行し始める。「廃仏毀釈」である。日本古来のおおらかな信仰が否定され、国家神道への収斂をもくろむ強制的な歩みが開始されたのである。多くの寺や仏像が焼かれ、僧侶は否応なしに神官に、それを拒絶する僧侶は追放されたり、酷い目にあっているのだが、この問題はタブーででもあるかのように、これまであまりにも語られないできた。さわりの部分だけだが佐伯恵達氏の文章を引用してみたい。

〝明治維新における「神仏分離」(しんぶつぶんり)と「廃仏毀釈」(はいぶつきしゃく)の断行は、取り返しのつかないほどの失敗だった。いや、失敗というよりも「大きな過ち」といったほうがいいだろう。日本を読みまちがえたとしか思えない。「日本という方法」をまちがえたミスリードだった。日本をいちがいに千年の国とか二千年の歴史とかとはよべないが、その流れの大半にはあきらかに「神仏習合」(しんぶつしゅうごう)ないしは「神仏並存」(しんぶつへいぞん)という特徴があらわれてきた。神と仏は分かちがたく、寺院に神社が寄り添い、神社に仏像がおかれることもしょっちゅうだった。…中略…そもそも9世紀には“神宮寺”がたくさんできていた。その神仏習合を鉈で割るように「神と仏」に分断して、制度においても神仏分離した。これは過誤である。〟(佐伯恵達『廃仏毀釈百年』より)

いずれ、時間をかけて検証してみる必要を感じる。戦後70年の今年、戦争推進の強力なバックボーンとして機能した国家神道。まぎれもなく「廃仏毀釈」を出発点として変容して行った国家神道。そもそもは平田篤胤等の国学の名を借りた「狂気」が、日本の海外拡張主義の骨格的な意味(アジア蔑視=国粋主義)を担わされ、暴走して行った歴史を、イデオロギー的な面からではなくきちっと検証しておく必要を感じるのである。

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