宸翰と御製のその後

朝廷を巻き込みながら強硬な攘夷=倒幕運動を続けていた長州藩とそれに追随する公家たちを、孝明天皇の要請を受け、京都から追放(八・一八の政変)したのは、時の京都守護職を務めていた会津藩主・松平保容と、まだ公武合体を主張していた薩摩藩であった。その後、長州藩はその報復として再び京に攻め上り、町に火を放ち、孝明天皇の拉致を企て、御所に向けて発砲する事件を起こすことになる。それがいわゆる禁門の変にほかならない。そこで孝明天皇を守ったのも松平容保と薩摩藩であった。その功によって松平容保は孝明天皇から宸翰(直筆の手紙)と御製(和歌)を賜ったことはよく知られていることである。

しかし、次の話を知る人は少ないのではないだろうか。

その下賜された宸翰と御製を、松平容保は大事に肌身離さず隠し持っていたという。数人の側近が知るのみで、みずから明らかにすることはなかったようである。松平保容の死(明治26年12月5日)後、宸翰と御製の存在を知った明治政府は、この事実とその内容が公になれば、自分たちがつくりあげて来た「国取物語」=明治維新史=虚史が根底から崩れてしまうという恐怖にさいなまれ、密かに宸翰と御製を譲渡するように大金を準備し圧力をかけたのだという。しかしながら旧会津藩・松平家はこれを頑なに拒否しつづけたと伝えられている。凄い話である。

資料として宸翰と御製の内容を記しておきたい。

[宸翰]「堂上以下、暴論をつらね、不正の処置増長につき、痛心堪え難く、内命を下せしところ、速やかに領掌し、憂患をはらってくれ、朕の存念貫徹の段、全くその方の忠誠、深く感悦の余り、右一箱これを遣わすものなり」 文久三年(一八六三)十月九日

[御製] たやすからざる世に武士の忠誠の心をよろこびてよめる 「和らくも たけき心も相生の まつの落葉の あらす栄へん」「武士と心あはしていはほをも 貫きてまし 世々の思ひて」

歴史はほんとうにミステリアスな世界だ。

go top