奥羽越にとって特別な日

11月2日は、奥羽越にとって特別な日である。慶応4年(1868)、東征大総督有栖川宮熾仁親王による奥羽鎮定宣言ならびに錦旗節刀の奉還が行われ、新政府による戊辰戦争勝利が高らかに宣せられた日であるからだ。裏を返せば新政府に反旗を翻した奥羽越の人々が無念を味わった日ということにもなる。朝廷の威光を利用し、恣に権力を掌握しようとしていた理不尽な新政府軍(薩長土肥)。それに対抗するため、ぎりぎりの矜持の表現として奥羽越31藩の同盟が結成されたわけだが、それからわずか半年後のことであった。

少し遡って戊辰戦争に突入する4年前、つまり元治元年(1864)1月21日の孝明天皇の注目すべき言葉をみておく必要を筆者は強く感じている。

『妄ニ膺懲ノ典ヲ挙ゲントスレバ、却テ国家不測ノ禍ヲ招カントスルヲ恐ル。…中略…軽卒ニ攘夷ノ命ヲ布告シ、妄リニ倒幕ノ師ヲ起サントス。長門宰相ノ幕臣ノ如キ、其ノ王ヲ愚弄シ、故ナキニ夷舶ヲ砲撃シ、幕吏ヲ暗殺シ、…中略…如此暴挙ノ輩、必ズ罰セズンバアルベカラズ』

徳川家茂が松平容保を従え御所に新年の挨拶に参内した折、孝明天皇より賜った勅語(抜粋)である。この時、天皇の信任を得ていたのは誰なのか、一目瞭然であろう。

過激な攘夷運動、討幕運動へとひた走っていた長州藩のやり方に対する孝明天皇の素直な気持ちが映し出されている。そしてそのおよそ半年後の8月2日、天皇は幕府に対し長州征伐の命令を下す。ところがその2年後の慶応2年、状況は急転する。辿ってみると、6月17日=第二次長州征伐。7月20日=将軍・徳川家茂、大阪城で没(毒殺説あり)。12月25日=孝明天皇崩御(毒殺説あり)。そして翌年の慶応3年(1867)1月9日=明治天皇即位。10月13・14日=薩長両藩に対し偽勅「討幕の密勅」が下される。10月14日=将軍徳川慶喜により大政奉還という周知の流れになるわけである。

ここから何がみえてくるのか。すべては孝明天皇の崩御(現在の研究では「毒殺説が有力」)が起点となり、残忍なテロを内包した攘夷運動は一気に問答無用の倒幕運動へと舵を切って行く流れがみえてくる。奥羽越諸藩は主に京都における情報収集によりこの不可解な状況の本質を早い段階から見抜いていた。この重要な一点を見ず慶応4年(1868)4月以降の戊辰戦争を語ることはやはり出来ないのである。

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