白河城(小峰城)から宇都宮城址周辺へ

◎第1日目の散策◎【白河城(小峰城)】

「白河城御櫓絵図」やそれまでの発掘調査の成果などをもとに、平成3年、木造建築によって可能な限り忠実に復元したという本格的な城(三重櫓)です。この復元に際し、戊辰戦争の激戦地であった稲荷山の杉の大木を部材として使ったため、床板などにそのときの戦闘で撃ち込まれたいくつかの弾傷(弾痕)がみられます。実はこのお城、戊辰戦争の戦況を決定づける要衝中の要衝でした。

白河藩主の阿部正静は、慶応3年正月、加増のうえ10万石で棚倉に転封となった後、白河城は領主不在のまま幕領として二本松藩主丹羽氏の警備に委ねられていました。仙台入りした九条道孝奥羽鎮撫総督の下参謀であった世良修蔵は、会津征討にむけ、慶応4年4月5日、空城であった白河城に入り、二本松・仙台・棚倉・三春・泉・湯長谷らの諸藩兵を集め、強圧的に会津藩攻撃の厳命を下し、ここから会津追討の軍を進撃させようとしていたのです。しかしながら、会津を武力で討伐しなければならない理由についてどうしても納得できなかった仙台・米沢の両藩は奥羽諸藩の重臣たちと白石に会合し、会津救解を目的とした奥羽列藩同盟結成の準備を進めようとしていました。そのような状況の中で、謂われなく「朝敵」の汚名を着せられた会津藩は鎭撫軍=新政府軍との戦闘にそなえ、西北から無人の白河城へと侵入し陣を構えました。この動きを知った新政府軍は激怒し、ここから3ヶ月余に及ぶ白河城攻防戦が開始されたのです。同時に、いっとき奥羽越31藩が輪王寺宮公現法親王=東武皇帝を盟主に迎え、ひとつに結束し、新政府軍と戦うという史上稀な政治状況が生まれたのです。

あたかも天守閣のように聳えているのは実は三重櫓です。視覚的にすばらしく、はじめて見る方はやはり天守閣だと勘違いされるそうです。また広大な石垣群もいろんなパターンの組み方が混在し、デザイン性豊かで目をひきます。前回訪れたときは、3・11震災の影響でところどころ石垣が崩落し、城には近づけませんでしたが、今回は修復工事はまだ継続中でしたが、三重櫓の最上階まで登る事が出来ました。戊辰戦争で焼失する前は本丸に政務を執り行う広大な館があったとのこと。
また、お城へのアプローチの途中にある小さな資料館=「白河集古苑」の入り口にはアームストロング砲が展示されていました。思っていたよりかなり小さくて驚きました。これは「八重の桜」の撮影に実際使われたものだそうです。

小峰城全景床板の弾傷

アームストロング砲

 

◎2日目の散策◎【宇都宮城趾とその周辺】

事前の資料読みの通り、やはり宇都宮城は土塁のみでした。公園を併設した現代的な空間に変貌していて、郷土資料館のような小さな空間も設置されており、これはこれで「あり」かなという印象でした。

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そこから徒歩で東へ約10分のところにある「松ヶ峰門」址へ。ここは土方歳三が負傷した場所と言われているのですが、その面影をとどめる表示板や標識はなにひとつありませんでした。資料によると、現在、大きな建築物の背後にかろうじて見える金網の柵で囲まれた土塁の前あたりがその現場だったようです。

次に「松ヶ峰門」址から車でさらに東へ移動し、「光琳寺」へ。ここで予想外の発見がありました!

《  討つ人も  討たるる人も  もろともに  同じ御国の  為と思えば  》

このような歌(ことば)を刻んだ碑が、新政府軍兵士の墓(因州藩士)と向かい合って建つ旧幕府軍兵士の墓(桑名藩士)のすぐ近くに据え置かれていました。摩訶不思議な空間でした。文学作品として読んでしまえば、あまりにも意味がストレートに突出し過ぎていて、けっして上手い表現とは言えませんが、戊辰戦争の歴史全体のイメージをこの歌の背景に置いてみると、なぜかジーンとしてしまいます。これは長岡藩主牧野忠訓(ただくに)公の奥方が詠んだものとのこと。向かい合った墓碑をみて詠んだのか、戦乱の世の哀しみを普遍化して詠んだのかは知る由もありません。長岡藩といえばやはり家老であった河井継之助の名は広く知られていますが、戊辰戦争において、庄内藩よりあとに、つまり最後に新政府軍に恭順降伏した藩だったことについてはあまり知られていないようです。

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さて、「光琳寺」の駐車場に車を停めさせて頂いて「六道の辻」へ。戊辰戦争において宇都宮藩は新政府に与し戦いました。そして会津戦線で長岡藩の家老山本帯刀を捕らえました。しかしながら、敵であった会津藩や長岡藩の藩士たちを宇都宮の人たちはいまも温かく供養し続けているのです。それが「六道ノ辻戊辰役戦士墓」でした。日本人のすばらしいモラルのいったんに触れた感じがして、清々しい気分でした。ちなみにその山本帯刀亡き後、山本家には跡継ぎがなくなり、同じ長岡藩の家中だった高野家から養子としてむかえた人物こそ、誰よりも太平洋戦争に反対していたにもかかわらず真珠湾攻撃という苦渋の選択をしなければならなかった、あの連合艦隊司令官山本五十六です。

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最後の写真に写っている大イチョウですが、この場所は薩摩藩の大山巌が、いったん奪われた宇都宮城奪還にむけて四斤山砲を据え、本陣を構えた場所だそうです。引き続き近くの「戊辰薩摩藩戦死者墓」のある「報恩寺」に寄ろうとしたのですが、もはや残された時間は尽き、やむなく帰路へ。こんな散策の二日間でした。

宇都宮城も新政府軍と旧幕府軍の激しい攻防戦が繰り広げられた場所のひとつだったのです。今回もお天道様に守られ、達成感満載の散策となりました。

 

 

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