読者様から重要なご指摘を頂きました。

小生のブログ「《史実》って不可知か?」(2014年3月7日付:犀のつぶやき)の内容につきまして、昨日(7月8日)以下のような、丁寧かつ親切なご教示を頂戴致しました。ずっと疑問に思っていた「建白書」の行方について、小生は2つの別個の建白書を同一のものとみなしていたことによる混乱であったことが判明しました。ご指摘下さり、なおかつご教示くださった匿名様に心より感謝申し上げ、お礼を申し上げたいと思います。ありがとうございました。今後とも何卒よろしくお願い致します。

ご指摘頂いた匿名様の文章を、匿名様の了諾を頂戴致しましたので、全文そのまま転載させて頂きます。

事実誤認があるようなので、差し出がましいようですが、お知らせ申し上げます。
「『既に東征軍が出発しているため時期遅し』とした仙台藩内討幕派の参政三好監物(みよしけんもつ)の執拗な抑止にあい、結局朝廷に届けられずに終わった」というのは、慶応4年2月の段階の話です。
このときは仙台・米沢両藩が歩調を合わせながら別々に建白書を起草し、太政官に討会・討幕の不可を訴えています。
しかし、京都詰の判断で両藩とも提出を見送っています。
次に、仙台の坂英力・笠原中務、米沢の庄田惣五郎が使者となって太政官に提出しようとした建白書は、閏4月のもので奥羽列藩の会津藩謝罪歎願の建白書です。
こちらは、米沢藩の宮島誠一郎が京都に潜行して、8月に太政官への提出を果たしています。
その旨は宮島の『戊辰日記』に詳細に記されています。
つまり、二つの建白書は、「同じ事実」ではなく、時期も性格も異なる別々のものなのです。
したがって、この件については「史実は不可知」ではありません。

公開させて頂いた理由は、小生のブログをお読み下さっている方々へのお詫びと訂正を兼ねさせて頂き、自らの書くという行為にさらなる注意力と検証を課すべきとの思いがあったからです。いずれにしても歴史を解き明かして行こうとする道の険しさを追認させられる貴重な契機となりました。感謝。

 

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