お礼と前触れ的PR

まず、先行した上山城での歴史講座「清川八郎暗殺と金子与三郎」(7月9日)を、無事つとめさせて頂くことが出来ました。いろんなイベントが重なり、しかも雨模様という悪条件であったにもかかわらず大勢の方にご参加頂き、ほんとうに感謝しております。主催者ならびにご参加くださった皆様に、心よりお礼申し上げます。

講座の様子:上山城HPより

そして今週の土曜日、県立図書館主催【本の森講座】でお話しさせて頂く内容を、先出しジャンケン(いま流行ってることばですね)で、少しだけ。

◎ペリー来航の半世紀も前に、幕府の開国への流れが始まっていた!
突然黒船が浦賀に現れ、江戸城内は騒然となった、なんていう維新史は、倒幕勢力が権力を奪取したあと、幕府の無能ぶりをフレームアップするための虚言ではなかったのか。
最初、ペリー艦隊は久里浜に着岸しようとしたが遠浅で果たせず、幕府が浦賀沖に誘導したというのが実際だったようです。
ましてやオランダからの情報として幕府は数年前からペリーの日本来襲を知っていた。
遡れば、徳川家康が戦国時代に終止符を打って江戸幕府を創設。まもなく長崎に出島をつくり、海外情報の収集を始めている。
「風説書」という記録文書があるという。幕末になると「別段風説書」として、とりわけアヘン戦争以降は一層情報収集を強化していたようである。幕府の収集した情報からみて、攘夷派の「攘夷決行」など小児病的なテロリズム以外の何物でもないようにみえていたのだろう。

もうひとつ。
◎文久年間、国学をバックボーンにして教条主義的な「尊王攘夷」などという便利な符牒が、討幕運動の隠れ蓑として跋扈した。これに危機感を持った幕府は京都守護職を設け、松平容保(会津藩主)がその任についた。
調べてみるとこの京都守護職の設置を建言したのは薩摩藩であったようで、当初会津と薩摩両藩がその任につく予定になっていたという。ところがそのおよそ1週間前、薩摩藩士による生麦事件があり、薩摩藩主は謹慎の身にあった。そのため、会津藩だけが、この困難な職務を課されることになったらしい。
もし、両藩が就任していた幕末史は大きく変わっていただろう。
もちろん歴史には「…たら、…れば」はない。
だからこそ、現在の問題に置き換えてみても、その時その時の判断が重いのだろうと思う。

よろしかったら、今週土曜日の16日、午後1時30〜3時 遊学館2F第5研修室にお越しいただけたら嬉しいです。よろしくお願い致します。

 

 

 

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