今日(11月9日)の函館ライブカメラを覗いたら雪景色。3日〜5日までの比較的好天の旅はまったくスリリングな日程だったことになる。
さて、11月4日、朝早く車のナビにフェリー乗場の情報をインプット。午前10時出発のフェリーだったが、乗船手続きやら何やらがあり1時間前の9時にはターミナルに着いていなければならない。不慣れな土地での運転はナビがあるとはいえ何がおこるかわからない。朝食を済ませ早めに出発することにした。予感は的中した。ターミナルに着いて乗船手続きをしようと受付窓口に行くと、「ここは違います」という。「青函フェリーは、向こうにみえる建物の方です」と。やはり早めの行動は正解だったのである。今度は無事手続きを済ませ、ロビーで安心して乗船誘導のアナウンスを待つ。そして案内は流れ、車をフェリーの胎内深く移動。15分ほど経過しただろうか、いよいよ北海道への旅路である。フェリーは静かに青森港を出発。海は穏やかでたいして揺れることもなく3時間40分の航行で、午後1時40分、定刻通りの函館港接岸であった。ついに念願だった五稜郭までもうすぐのところまで辿り着いたのである。
慶応4年(1868)4月、江戸城無血開城により、戊辰戦争は北陸、東北へその舞台を移した。5月、官軍を自称する薩摩・長州が決定した徳川家への処置は、駿河、遠江70万石への減封というものであった。これにより約8万人の幕臣を養うことは困難となり、多くの幕臣が路頭に迷うことを憂いた海軍副総裁の榎本武揚は、蝦夷地に旧幕臣を移住させ、北方の防備と開拓にあたらせようと画策する。榎本は新政府への軍艦の引渡しに応じず、4月12日、悪天候を理由に艦隊を館山沖へ移動。ただし、恭順派の勝海舟の説得で品川沖に戻り、富士山丸・観光丸・朝陽丸・翔鶴丸の4隻を新政府に引渡すが、開陽など主力艦の温存に成功した。いっぽう米沢藩・仙台藩を中心とする奥羽越列藩同盟は榎本武揚に対してかなり早い段階から海軍力の支援を要請していたにも関わらず、薩摩・長州勢に内応していた勝海舟の「徳川慶喜の側から離れてはならない」という大義名分の圧力によって果たせずにいた。そして榎本艦隊が動き出したのは8月20日、開陽を旗艦として8隻からなる旧幕府艦隊(開陽・蟠竜・回天・千代田形の軍艦4隻と咸臨丸・長鯨丸・神速丸・美賀保丸の運送船4隻)は品川沖を脱走し、一路仙台を目指している。しかし、この判断は戊辰戦争の戦況においては遅きに失した。
榎本武楊(釜次郎)は9月10日仙台城内に奥羽越列藩同盟の特使等を集めて、今後の作戦行動について軍議を開催。土方歳三を総督にし、近代戦の遂行を訴えるも、特使たちはこの呼びかけに即応できず、榎本は旧態依然たる諸藩の状況認識に失望しつつ、会津鶴ヶ城攻防戦への援軍派遣をついに断念、仙台藩額兵隊ならびに見国隊らと函館を目指すことになったのである。この奥羽の戦況を決したとも言える軍議には山形藩士青木市之進、上山藩士泉水百輔も列席していた。
榎本艦隊は、幕府が仙台藩に貸与していた運送船・太江丸、鳳凰丸を加え、桑名藩主・松平定敬、備中松山藩主・板倉勝静、唐津藩世子・小笠原長行、歩兵奉行・大鳥圭介、旧新選組副長・土方歳三らと旧幕臣からなる伝習隊、衝鋒隊、仙台藩を脱藩した額兵隊などの兵を収容。10月9日、東名浜から牡鹿半島基部の折浜(現石巻市)に移動。その際、平潟口総督四条隆謌宛てに旧幕臣の救済のため蝦夷地を開拓するという内容の嘆願書を提出している。更に官軍が石巻まで迫ったため、10月12日に折浜を出航し宮古湾に向かう。途中、回天が気仙沼で幕府が仙台藩に貸与していた千秋丸を拿捕。宮古湾で薪を補給、10月18日、蝦夷地に向け出港した。
箱館港には官軍の防備があるため、危険を冒しての敵前上陸を行わず、まず安全な地点に部隊を上陸させれば、兵力差のある新政府軍を野戦で撃破することは容易と考え、箱館の北、内浦湾に面する鷲ノ木を上陸地点とし、10月21日に約3千名が上陸した。