藤井松平氏の盛衰に関する私論

寛政年間(1789年—1801年)に江戸幕府によって編纂され、文化9年(1812年)10月に完成した1,530巻にも及ぶ大名や旗本の膨大な家譜集がある。いわゆる『寛政重修諸家譜(かんせいちょうしゅうしょかふ)』である。それによると藤井松平氏は「14松平氏」の1つの譜代大名にかぞえられている。

その藤井松平氏だが、隆盛期(下総国古河時代=現在の茨城県古河市)には9万石を有していながら、版籍奉還の時点ではなぜか2万7千石、つまり4分の1にまで削封されてしまっていた。その理由についての私論をあくまでも推論だが述べていきたい。

さて、この課題に挑む前に、藤井松平氏の就封地の変遷について押さえておこうと思う。図式的に表すと次のようになろう。

三河国(藤井安城)▶1590年:布川(5千石)▶1601年:土浦(3万5千石)徳川政権樹立・幕藩体制の確立▶1617年:高崎(5万石)▶1619年:丹波笹山(5万石)▶1649年:明石(7万石)▶1679年:大和郡山(8万石)▶1685年:古河(9万石)▶1693年:改易→家名再興・庭瀬(3万石)▶1697年:上山(3万石→2万7千石)

時間を一気に遡ってみたい。藤井松平氏の中興の祖は松平宗家5代長忠の5男・利長と言われている。ちなみに松平(徳川)家康は松平宗家9代目にあたっている。利長の嫡男である藤井松平2代信一は観音寺の戦い(箕作城の戦い)において一番乗りを果たし、織田信長はこの働きをみて「膽(きも)に毛を生する人」といい、自身が着ていた足利家より拝領の鹿革に五三の桐紋を縫い付けた韋戎衣(いじゅうい:胴衣)を脱いで信一に与えたというエピソードが残っている。

3代・4代と時代は進んで5代信之は老中まで昇進を果たし、1万石加増の上で次代に繋いでいる。ここまでは石高の変化で見る限り、藤井松平氏にとってきわめて順風満帆な流れのようであった。しかし、6代古河藩主忠之の時代に大きな厄災がふりかかる。

資料を漁っていくと、その厄災に見舞われる理由がさまざま記されている。忠之の「ご乱心」とか「失心」、なかには「発狂」と記している資料さえある。いずれにせよ元禄6年(1693)11月25日、藤井松平氏は一気に改易寸前にまで追いやられてしまったのである。

では、「ご乱心」「失心」「発狂」というように、どれも尋常でない表現になっているが、果たして何があったのか?

そこで『徳川実記』にあたってみると、第6編182ページに「あらぬふるまひするにより」「除封」とある。では「あらぬふるまひ」とはどういう振る舞いだったか。残念ながら『徳川実記』にはそれ以上の記載はない。しかし、周辺のことなどを調べていくとそこに「熊沢蕃山」というひとりの思想家が関係しているように思われるふしが見えて来る。

熊沢蕃山は「或るひと……を問う」という問答体で記された『大学或問(わくもん)』という書物を書き、そのなかで幕政を批判した思想家である。その文意を要約すると次のような内容であった。

武士、とりわけ君主の責務に対する洞察、治山・治水論などの具体的提言、農兵論の展開と貿易振興の必要性、大名財政を圧迫している参勤交代の緩和等について述べている。さらにその論旨には鎖国的な政策への批判など幕藩体制下の社会の根幹に関わる施策が含まれ、その内容が当時の幕府にとってきわめて不都合なものであったのだ。時代が時代だけに幕政を私議した廉により蕃山は蟄居を命ぜられ、こともあろうに下総国古河つまり藤井松平氏の居城に幽閉されることになる。預かった松平忠之は、有能な蕃山を内密裡に藩政に関与させてしまう。それが幕府に露見。藤井松平氏が改易寸前に追いやられてしまった理由、つまり「あらぬふるまひするにより」とはそういうことであったように筆者には思われる。

では、藤井松平氏6代古河藩主・忠之は、危険をおかしてまで、熊沢蕃山をなぜ、どのように、藩政に関わらせてしまったのであろうか。

それを類推するには下総国古河の地形や地勢のことを見ていく必要がある。それら地理的条件が大きく関与していたと思われるからである。当時古河では領内を流れる渡良瀬川の氾濫が常態化していた。そこで蕃山の得意とする治山・治水の技術が頼りにされ、忠之は謹慎の身にあったことを承知の上、蕃山を藩の治水事業、つまりは暴れ川であった渡良瀬川流域の改修事業に関わらせてしまったのではないのか。そのことが原因で幕府の怒りをかってしまったと考えられるのではないのか。繰り返しになるが、藤井松平氏が改易寸前にまで追いやられた理由(史実としての経緯)が明記されている資料をこれまで目にしたことがなく、熊沢蕃山が関わっているとする考えは、あくまでも状況証拠を基にした筆者の推論にすぎないことは断っておきたい。

ただ不幸中の幸い、忠之が1万石加増の9万石で5代信之から家督を継承したとき、もちろん改易される前のことだが、加増分の1万石を弟の信通に与え、信通は1万石の興留藩を立藩していた。さらに幕府は信通に対してそれまでの藤井松平氏の徳川家への功績を認め、家の再興をも許し、2万石加増のうえ3万石で備中庭瀬への移封を命じたのである。そして元禄10年(1697)、上山へのさらなる転封ということになったわけである。

上山統治の間はずっと3万石であったが、幕末に起こった戊辰戦争において上山藩は奥羽越列藩同盟の一員として新政府軍と戦い、慶応4年(1868)9月ついに恭順降伏するに至る。その戦後処分として3千石減封の沙汰となり、ついには2万7千石にまで削封されてしまう。これが筆者が考える藤井松平氏の全史なのである。一大名の盛衰などまさしく幕府の胸先三寸でいかようにもなったという一つの例のようにも読みとれよう。

写真は平成24年(2012)に愛知県安城市歴史博物館で開催された「安城ゆかりの大名 藤井松平家」展にて。

go top