友人から「近頃ブログの投稿がないね」との指摘を受け、そういえば…ということで久しぶりにアップするのは、天井に貼った金箔の総重量が11kgとも言われている贅を尽くした大倉喜八郎の別邸「藏春閣」と、その瀟洒な世界とは真逆と言ってもいい「新発田藩 足軽長屋」。
大倉喜八郎(大倉財閥中興の祖)は幕末に膨大な富をなし、渋沢栄一らと共に、帝国ホテル、帝国劇場などの設立に関わる一方で、教育にも関心を持ち、現在の東京経済大学の前身である大倉商業学校の創設にも関わった人物である。
実は、現地に出かけ見聞する前は、せいぜい新政府軍(薩・長・土・肥)に武器弾薬を無節操に売り飛ばし、大儲けをし、奥羽諸藩にとっては決して好ましいとは言えない人物だぐらいの認識しかなかった小生だ。しかし、少し資料に目を通すと、商人としての原理原則を持った人物であったこともわかり、思い込みのイメージを粉砕してくれ、とても有意義な回遊となった。
その喜八郎が東京の隅田川沿いの向島別邸内に建てた迎賓館(蔵春閣)が、2017年、(公財)大倉文化財団から新発田市へ寄贈され、東公園内に2023年4月29日に移築されている。
次に向かったのは「新発田藩 足軽長屋」
帰宅してからウィキペディア等で調べてみると、ここは、「桁行24間、梁間3・5間、寄棟造りの茅葦屋根をもつ八戸の棟割長屋。一戸の主屋は間口、奥行3間の9坪、裏には2坪の炊事場と1坪の土間が下屋造りでついています。主屋の間取りは、半坪の入口土間、炉付の2坪半の板の間、それに8畳と4畳の2室、または6畳2室。床や書院はなく、軒高で内法高は低く、小屋組みも叉手構造のつつましい造りです。 当時の住人は、記録によると姓のあるのは1人だけで、ほか7人は名のみ。役職は御門番組・御旗指組などの小者と御綱方と、足軽以外のきわめて身分の低い家臣でした。幕末の下級武士の生活ぶりを伝える住居は、全国的にも例をみない貴重な遺構です。」とあった。