勝沼精之允・ます、そして勝沼精蔵

◐とても身近な幕末の話◑

幕末の動乱期は、多くの藩において藩論が割れ、混沌とした状態にあったが、館林藩も例外ではなかった。現在から見れば、薩摩・長州・土佐・佐賀を中心とした倒幕目的の展望無きクーデターであったわけたが、渦中にあっては、その本質をなかなか見通せるものではなかったのだろう。我が国の近代化は倒幕後に始まったという強引な史観も、官軍教育のなかで刷り込まれ続けてきたまったくの虚史であった。そのことも現在だいぶ解明されてきている。

倒幕を叫ぶ勢力は、近代化阻止のスローガン=攘夷(外国人を1人たり入れるな)を旗印にして、それに尊皇をも標榜していたわけだが、陰では孝明天皇の暗殺に手を染めるなど真の尊皇でなかったことももはや明白になっている。そう、ひたすら徳川政権が進めていた近代化路線の妨害に奔走し、権力奪取だけを追い求めていたわけなのだ。

さて、館林藩下家老の席にあった勝沼精之允は、非戦への希みを託し、1868(慶応4)年1月10日以降、理不尽にも朝敵の烙印を捺され呻吟していた会津藩の藩士と幾度となく会合をもっていた。長崎海軍伝習所で学んだ経験をもつ精之允だが、勝海舟とは距離をおき、榎本武揚を尊敬していたという。この一件からも精之允の人間性や倫理性を垣間見ることができるように思う。

しかし、長州の毛利家と遠い姻戚関係にあった館林藩主秋元礼朝(ひろとも)は、早い段階から新政府軍に与することを決断。奏者番として幕閣の一員でありながら倒幕軍に与してしまうのだ。

なるほど、最終的に人を衝き動かすのは組織上の役割や理念などではなく、血筋なのかと考えさせられる。

そんななか精之允の立場は危うくなり、ついに戸田家から秋元家に養子に入っていた藩主の若君興朝(おきとも)を擁し、支領である漆山陣屋(山形)に逃亡した(蟄居命令説あり)のである。

仙台藩と米沢藩が中心となり進めていた会津救済のための嘆願書も、奥羽鎭撫総督府下参謀世良修蔵によって拒絶され、状況は悪化の一途を辿る。1868(慶応4)年5月3日奥羽25藩、5月6日には北越6藩を加え、奥羽越全31藩による大同盟が結成されるや、新政府軍との全面戦争へと突入して行く。当然、館林藩の支領である漆山陣屋は同盟軍に包囲されており孤立を余儀なくされていった。

そんななか陣屋内では本藩の方針に従い新政府軍につくか、あるいは同盟軍への合流を決断すべきか話し合いが行なわれたが、精之允が主張する同盟軍参加の考えは漆山陣屋全体を動かすことは出来なかったのである。

ついに精之允は同志7名を引き連れて脱藩、妻の実家である上山の儒者五十嵐宇拙を頼って同盟軍に投入したのである。

しかしながら、同盟傘下の奥羽越諸藩は8月後半に入ると多くは劣勢となり、9月には恭順降伏が相次ぐ。すかさず館林藩では精之允等の行動は叛逆行為であるとみなし、逮捕処分を急いだ。

その頃精之允は妻子とともに上山の五十嵐家にいたが、身の危険を知ると知人の上山藩領内宮脇の庄屋大沼家にしばらく潜伏していたが、米沢、仙台、上山、山形、会津、庄内、長岡と降伏が相次ぎ、同盟軍は瓦解。そんな状況のなか追っ手が迫ってきた10月25日夜、精之允は大沼家において割腹し果てたのである。時に精之允35歳と伝えられている。

 

精之允の孫にあたる人物は、名古屋大学総長などを歴任され、文化勲章(1954)、フランスのレジオン・ドヌール勲章(1954)、ドイツ大功労十字勲章(1955)など輝かしい栄誉を受章した、わが国近代医学黎明期に活躍した重鎮・医学博士勝沼精蔵にほかならない。

写真は上山市宮脇地内に立つ戒名のない勝沼精之允の墓である。中央に「南無阿弥陀仏」とのみ刻字されている。

撮影は筆者。

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