ちょっと(いや、かなり)恐い話

 幕末の闇は理解を越えてしまうくらい深いと言うしかないようです。
 わが国の初代首相伊藤博文は1909(明治42)年10月26日、吉林省浜江庁ハルビン駅で大韓帝国藉の独立運動を推進する活動家安重根(アン・ジュング)に襲撃され死亡しました。親日家としても知られていた安重根ですが、大韓帝国との関係においては残念ながら日韓併合へと道を開いた伊藤博文は、侵略の元凶いわば極悪人と位置づけられ、独立運動の活動家たちから常に狙われていたことを推察することは容易なことでした。
 安重根は捕らえられた後、裁判において全15項目にわたる暗殺の理由や動機をみずから供述しているのですが、そのうちのひとつ14項目に挙げているのが次のような不思議かつ驚くべき内容だったのです。
【伊藤博文暗殺の動機14項目目】
《伊藤博文が日本の天皇の父上である孝明天皇を殺した》
 孝明天皇の暗殺に関わったがゆえに伊藤博文を暗殺したという動機と安重根の立ち位置が私にはどうしても理解できません。たとえば他の理由として挙げられている《伊藤博文が兵を使って韓国を日本の保護国にした》とか《伊藤博文が韓国の教科書を燃やした》とかの理由については、文脈としては理解出来るとしても、それにまじって場違いとも思える《孝明天皇を殺したから》という理由を私たちはどう考えていいものか。
 孝明天皇は公式には痘瘡による病死とされてきましたが、当時から暗殺説も多く、いまだ完全には決着をみていません。しかし、明治時代後期にあたるこの時点で、海外にまで暗殺説が流布していたとなれば、その暗殺説というものがかなりの信憑性を有していたのかも知れません。伊藤博文が直接手を下したわけではないとしても、なんらかのかたちで孝明天皇の暗殺に関わっていたという主張なのでしょう。
 それにしても孝明天皇の死がなぜ安重根にとって伊藤博文暗殺の動機の一つになったのか?
 暗殺説をとなえる人たちの論考をみても、これまで伊藤博文が孝明天皇の暗殺に直接関わったと名指しで記されている資料は読んだことはありませんし、暗躍していたのは主に岩倉具視や武力倒幕を主張する西郷隆盛、それに松下村塾を拠点としていた長州藩の過激な連中の仕業だとされてきているわけです。
「孝明天皇は長州藩の忍者部隊によって暗殺され、その子睦仁(むつひと)も即位後直ちに毒殺された、そして、睦仁の身代わりになった明治天皇は実は南朝の末孫という長州力士隊の大室寅之祐であり、孝明天皇の子ではなかった。」
 このように衝撃的な内容を書いているのは『裏切られた三人の天皇』の著者鹿島曻ですが、もしこれが史実だとしたら、孝明天皇暗殺の背後には幾重にも折り重なったミステリーが仕組まれていることになります。
 孝明天皇暗殺説は現在のところ岩倉具視とその関係者たちによるとする説が大勢であるとはいえ、鹿島曻が述べている明治天皇の替え玉論についてはまだ語られることは極めて少ないですし、さらに鹿島曻氏の説によるとその南朝の人物=大室寅之祐は百済人だというのです。長州と薩摩に田布施という同じ名の集落があり、そこに集団で住んでいた人たちが朝鮮由来の百済人だというのです。
 さて、幕末史の闇は深まるばかりです。鹿島曻という人は引用した『裏切られた三人の天皇』のほか『倭と日本建国史』『倭人と失われた十支族』など多くの書を著し、《「とんでも本」作家》と揶揄されたり《歴史の深層を抉った研究者》と称されたり、著しく異なる評価として二分されています。どちらの評価が適切なのか、残念ながら小生には判断出来るほどの知識も教養もありません。今後の課題にしたいと思います。

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