謎めいた記憶〜故・片桐繁雄さんの話〜

かつて幕府の巡見使に随行して天明8年(1788)山形を訪れた文人古川古松軒(1726~1807/『東遊雑記』等紀行文著者)は、久保手から花川の西、谷柏から長谷堂周辺一帯に広がる紅花畑の光景をみて感動したと記している。

さて、時代は移ろい幕末戊辰戦争のときの話だ。その美しい長谷堂城跡の麓に代々住まいしていた片桐家のご先祖にまつわるエピソードである。祖父から父に伝わり、父から子(繁雄さん)へと語り継がれてきたという幕末期のとても興味深い話なのだ。それは次のようなものである。

《竃に鍋を掛け、麦を煮る火をみながら留守番をしていた5歳になる虎蔵(繁雄さんの祖父)のところへ、ざんばら髪で抜き身の刀をもったサムライが突然入ってきた。そして咄嗟に「坊、食わせろや(表現はあくまでもニュアンス)」とことばをかけてきた。虎蔵はなにがなんだか分からないまま煮ていた麦を出すとサムライは勢いよくそれを平らげ、「ご馳走になったな」と、懐から一分銀(現在も実家で保存していると生前の片桐さんは話されていた)を取り出し、虎蔵に握らせ、どこかへと出て行ってしまった…》

筆者に断定できることは何ひとつないが、あたかも敗残兵のようなサムライが長谷堂地内に出没するシーンを想像してみると限定的に絞って行けるようにも思えた。

まず、そこそこ広域的な視線で長谷堂周辺での当時の戦闘を挙げてみると、慶応4年(1868)閏4月4日の、庄内軍が山形藩の本陣を急襲した中山町落合での戦闘。また、同日の庄内軍による天童焼き討ち。そしてもうひとつは戊辰戦争末期の同年9月20日払暁に寒河江長岡山で起きた桑名・庄内両軍に対する新政府軍の急襲作戦、この3つである。

前者の場合、天童藩・山形藩それぞれの資料には隊を乱しバラバラに逃走したという記録は、狭い筆者の知見の範囲でだが、見当たらない。一方、長岡山での戦闘では、慌てふためいた桑名藩軍の一部が散りぢりに土地勘もないまま迷いながら必死に逃走した可能性は大いにあるように思われる。ましてや窮地に陥っていたサムライは、空腹を満たした後そのまま立ち去ったとしてもなんら不思議ではなかった。にもかかわらず5歳の幼い子どもに対してさえ礼儀を尽くし一分銀※を置いて去ったとなれば、かなりの教養や倫理観を持っていた人物とみなしたくなる。仮に桑名藩士であったとすれば、京都所司代の任にあった松平定敬の家来ということになり、一括りは出来ないとしても、それなりの品格を有したサムライだった可能性も否定できまい。果たしてどこのなんというかサムライだったのだろうか。その話をして下さった時の片桐繁雄さんの表情はいまも忘れられない。

※ 故・片桐繁雄さん:最上義光研究の第一人者。とりわけ義光を文人の視野から再評価した連歌の研究は注目を集めている。

※ 一分銀の写真はイメージで現物ではありません。

 

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