それにしても、最近のテレビの画面から飛び出してくるニュースは凄い。原発事故による廃炉作業員への特別手当が、幾重もの下請け構造の中に吸収され、現場作業員には渡っていなかったというとんでもない話。一家惨殺、通り魔、他人のパソコンを遠隔操作してなされる犯罪も出て来ている。世界に目を向けても、性懲りもなく繰り返されるイスラム教原理主義者とキリスト教原理主義者との国家レベルでの宗教戦争。抑止効果を口実に進められている核兵器拡散への傾斜。そんな情況を見せつけられていても私たちはどうすることもできない。考えるまでもなく歴史上のあらゆる戦争は〈正義〉によって戦われて来たのだ。「私たちは自慢出来るとんでもない侵略者です、これからあなたたちへ滅茶苦茶な悪事を働きます」と宣言して為された戦争は人類史上ひとつもない(はずだ)。イスラム教を信仰する人の〈正義〉、キリスト教を信仰する人の〈正義〉、共産主義イデオロギーを信奉する人の〈正義〉、自由主義を信奉する人の〈正義〉。そしてそれらの精神構造を利用して扇動する権力者もそれぞれの〈正義〉のための英雄になる。何一つ〈正義〉を標榜しないカテゴリーはこの世に存在しない。自らを〈正義〉と規定すれば、相容れない神やイデオロギーを信ずる人や行為は〈正義〉に反する許し難い人や行為となる。お互いにその立場を譲らなければ当然信仰心や信奉心はヒートアップし、邪教(邪思想)許すまじ的な排他的な蟻地獄へと観念は簡単に導かれていく。
この精神の閉塞した回路を克服することが私たちひとり一人に課せられた課題なのである。
相対化せよ、複眼を持て、自・他を入れ替えて思考せよと言うのは簡単だ。それを世界標準のニュートラルな精神の在りようとして、つまりは人間の思考や感受性の座標軸として物静かに着地させなければならないわけなのだ。とんでもなく簡単な課題なのに、気が遠くなるほど絶望的な課題だ。
人がかつて受けた精神の傷は、増幅されながら遺伝していく性質を持っているからだ。パレスチナのことを想像すれば、憎悪だけが親から子へ、子から孫へとリレーされ、いつ果てるとも知れない精神の闇が再生産され続けているのがわかる。そしてそのリンクを絶つのは何なのか、その大事な部分だけがまったく見えないのだ。
天文学的数字の年数を要して人間は自らの精神の呪縛を突き破っていくことになるのだろうか。その間、現在の地球の全人口を何回分殺してしまうことになるのだろうか。数億年彼方から現在を見返してみたい衝動はかなりのリアリティをもって私の内部で疼いている。自分が生きている間に考えられる世界の変化は、残念ながらマイナスイメージだけである。
そんな虚無的なことを言ってどうするのと指摘してくれる人がいたら、まだ救われる。誰もそんなことを言えないフィールドになってしまっているからだ。現実的に考えれば考えるほど、個から公へ、明晰から迷妄へ、非戦から好戦へというムーブメントとして〈いま・ここ〉は変化を続けているような気がしてならないのである。
一家惨殺は何だろうか。怨恨か、物盗りか。通り魔は何だろう。覚醒剤による錯乱か、理性的な破滅願望か。少年による変態的な殺人は何だろう。ゲームなのか、ほんとうに〈命〉への慈しみはどこに行ったのかわからないほど、私たちの〈いま・ここ〉は不自然になっている。
私たちの世代が子どもの頃テレビで観たものは、比喩的に言えば〈人間の月面歩行〉という未来的な映像だった。それに対して〈湾岸戦争〉での爆撃シーンを茶の間のテレビで観せつけられた世代はそこに何を観たのだろう。絶望的な深い闇の映像か、はたまた爆撃機を操縦し次々と敵をやっつけていくヒーローの映像か。嗚呼!