3・11から、5日。

さすがに「3・11」当日のテレビは、各局とも「3・11」関連番組一色だった。だが、5日過ぎてみると、もう、各局のチャンネルをシャッフルしてみても、こだわりを持って継続しているテレビ番組は、もう見当たらない感じだ。わけのわからない「オチャラケ」番組オンパレードへの復帰となっている。「東電」を糾弾し、被災地の人々に「理解」を示す良識派の記者も、「政治家はなにをしているのだ」と怒ってみせるコメンテーターも、けっして責任を持って問題を追及し続けるわけではない。

被災者と、こころからシンパシーをもって応援しようとしている無名の人々の地味な活動だけが、もしかしたら少しだけ状況を変える力になっていくのかも知れない。その渦中にいる人々は「絶望」も「希望」も安易には口にしない。無責任に上から目線で状況をみている人たちだけが饒舌にそれを語りたがる。

廃炉まで40年だそうである。「だそうである」というだけで、そこに至るプログラムも現実的には描けていないともいう。無限に近いかたちで増え続ける汚染された冷却水の処理方法すら見いだしていないありさまなのである。もっと深刻なのは、溶け落ちた燃料棒の残骸がある場所が不明ともいう。間違いないことは、放射線量が最も高レベルの場所に、いかなる形状であるのかはわからないとしても、その残骸があるはずだということだけである。実際はなにも確認されていないのだ。人間が入れない高線量のエリアで作業をするのは、あくまでもロボットということになる。そのロボット自体の開発はこれからで、いつ完成するかもわからない。完成したとしても思惑通りの作業ができる環境が周辺に存在するのか、保証はない。つまり作業現場がどんな状況になっているかさえ確認できていないのだ。

体中深く鈍色の沈黙を抱え込んだまま、なかなか「絶望」も「希望」も語り出せないのが、わたしたちの情況にほかならない。

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