韻律について

  ススメ ススメ 兵隊ススメ。……A
  サイタ サイタ 櫻がサイタ。……B
  キライ キライ 戦争キライ。……C

 疑うことを知らない常識的な読みでは、Aは好戦的な心情の表現、それに対してCは反戦的な心情に連なっていくように読めるかも知れない。しかし、自己表出の根源を韻律に求めてみたい私の視点からは、単純にそうはならない。勝手気ままに意味だけを変えて表現してみたこれらの短文を、リズムだけでみるとどうなるか。一目瞭然、AもBもCも三・三・七拍子として全く等価なのだ。つまり感性の秩序はどれも異なるところのない共通の代物にほかならない。書かれた意味だけで詩(韻文)を論じることの不毛さと危うさを、この例からだけでも知ることができるのである。繰り返しになるが、表出された心的世界の構造は同じで、その表看板だけが違っているに過ぎないのである。
 時代の変化はさまざまな意味を表現者に与えるが、知らず知らずの内に、私たちの身体は韻律として、根こそぎからめとられている場合が多い。何にからめとられているかって? それは共同幻想にである。左右を問わず政治的なプロパガンダとしてなにやら激しい詩が表現されていたとしても、多くの場合、韻律は超古典的だったりするのだから、感性の秩序というものは実におかしいのだ。表現者の内部(心的世界の質)を、韻律は、意味よりも深く知らず知らずのうちに表現してしまうのである。
 菅谷規矩雄(1936-1989)が生前に著した『詩的リズム』『続・詩的リズム』『続々・詩的リズム』(大和書房刊)の三冊は、希有な韻律論として今後も輝き続けるにちがいない。詩人・批評家であった菅谷の韻律論のフィールドには「指示性の根源は韻律である」というくだりを含んだ『言語にとって美とは何か』(吉本隆明)があることは自明だが、詩史をグローバルに韻律史として総括してみせた画期的な著書だったのである。
 詳細はここではとても紹介できないが、明治ミリタリーの韻律は二拍子に還元でき、日本近代詩の中で固有な三拍子(ワルツ)の詩を唯一書き得たのが中原中也だったとか、その根拠も含めて興味深く展開され、密度の濃い内容になっている。今読んでも驚くほど新鮮である。

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