資料◎山村求馬の短刀発見について

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〈参考資料〉山村求馬(弘章)につい

小田原の北条氏を滅ぼした豊臣秀吉は、すかさず天正18(1590)年、徳川家康を関東へと封じた。その際、三河の松平一族(14松平氏)の中には家康の移封に帯同し、関東一円に移るものも少なくなかった。その一団に松平利長(としなが)を中興の祖とする藤井松平氏もおり、2代当主信一(のぶかず)は文禄3(1594)年総州(現在茨城県西部の結城市や古河市)の布川(現茨城県利根町)に陣を据え、状況の推移のなか関ヶ原の戦い(石田氏ノ乱)に備え、関東以北に睨みを利かせることになる。その布川において藤井松平氏は多数の家来を新たに召し抱えることとなるが、山村縫殿助(ぬいのすけ)もその一人であった(下図:御家中由緒旧記部分)。その後藤井松平宗家は土浦→笹山→明石→大和郡山→古河(改易→家名存続)、興留→庭瀬→上山と移り、山村家はその間、家老格を維持し続けていたようで、その嫡男が代々求馬(もとめ)を襲名していたと考えられる。今般の課題である幕末期上山藩軍総督の任にあった山村求馬に関する情報としては、一次資料は未見だが、次のように推定される。

▶ 天保6(1835)年 ? 月〜慶応4(1868)年7月11日

▶ 松平信庸時代(幕末)分限帳に「家老 石高300石 山村求馬」の記載あり

《推定の根拠》戊辰戦争において、慶応4(1868)年7月11日及位で戦死した時点で33歳と伝えられていることから、逆算すると天保6(1835)年生まれと考えられるが、残念ながら月日を確定するための資料は見当たらず断念。

戊辰戦争と上山藩

奥羽鎭撫総督府軍一行600の兵団は1868(慶應4)年3月10日に京都を発ち、3月18日に仙台藩領寒風沢(さぶさわ)に到着、本営を仙台藩校養賢堂に置いた。そしてさっそく3月26日、先に命じていた1月20日付の仙台藩に対する会津征討に関する勅命がなぜ履行されないのか理由を質すべく、但木土佐と坂英力を総督府に呼び出し、早々に会津征討に出陣するよう執拗に念を押している。

上山藩は仙台藩への勅命に遅れること2ヶ月、3月29日、総督府からの呼び出しを受け、中老山村求馬が本営に出向き、九条道孝総督より会津征討の兵を出すよう言い渡されている。ところが、10日後の4月8日に何故かこの勅命は撤回され、同月16日、改めて「朝敵」リストにその名の無かった酒井忠篤(ただずみ)=庄内藩征討への勅命が理由も明記されずに下される。

その後、上山藩軍は否応無しに新政府軍傘下部隊として庄内藩征討に出役するが、奥羽諸藩は次第に新政府の傲慢なやり方や会津や庄内が朝敵とされていることへの疑義を深め、ついに会津・庄内征討軍を解兵。奥羽25藩に北越の6藩を加え全31藩による奥羽越列藩同盟を結成、新政府軍と対峙することとなる。

5月からすでに戦闘状態に入っていた越後戦線は一進一退の状況。そんな状況下にあった慶応4年7月4日、同盟軍にとって想定外の事態が起こる。奥羽越列藩同盟に加盟していた秋田藩が同盟から離反したのである。

変化の予兆は、列藩同盟結成時に盛岡に滞留して動けなかった奥羽鎭撫総督府本営と、新庄から退去して能代に足止めになっていた沢為量(ためかず)副総督軍が連絡をとり合い6月下旬から行動を開始したことに端を発している。

7月2日九條総督・醍醐参謀の一隊約300名、沢副総督軍200名の総勢500名の武装兵団が秋田城下に乗り込んだのである。

7月3日に藩論を決すべく重臣会議を開くが、勤王派と旧守派が対立、結論は出なかった。しかし、翌4日秋田藩主佐竹義堯(よしたか)は藩論の対立を退け、自ら勤王の決意を固め奥羽越列藩同盟を脱退する。そればかりではなく、同日夕には秋田藩勤王派壮士等によって久保田に在宿していた仙台藩士11人が殺害される事件も起こった。

秋田藩の同盟離脱という大きな流れの兆しを察知していた上山藩が、慶応4年6月22日に米沢へ使者を送り、秋田口出兵を前にして、米沢藩五十騎隊・佐藤孫兵衛と折衝、3小隊の派兵の諒諾を得ている。当然、上山藩も7月4日藩軍の再編を行い、2個小隊を7月10日最前線の及位口へと進軍させた。このとき新庄藩兵の本体は及位に在陣し、同盟軍と行動をともにしていたが、突如同盟を離脱、翌11日の未明になって新政府軍は秋田側の藩境を越え、及位口の同盟軍を急襲した。このとき新庄藩兵は新政府軍として急襲を逃れる同盟軍を追撃したのである。上山藩兵も軍を乱し陣頭指揮をしていた藩の重臣山村求馬総督(33歳)が悲運にさらされ戦死。その後敗走せざるを得なかった上山藩兵は庄内藩に保護され、16日には再び新庄方面の戦列に復帰した。秋田領境の激戦で同盟軍を破った新政府軍は新庄城下に入り、南進の気勢を示した。同盟軍は猿羽根峠下まで撤退し、庄内藩に対し大部隊の派遣を要請。庄内藩はそれに応え、庄内1番隊・2番隊を主力に、金山口で敗走した仙台・米沢・山形・上山各藩の部隊が加わり新庄城に迫り、状況は一転した。それから8月にかけては同盟軍に有利に展開していくことになる。

山村求馬の最期

「此の日(7月10日—引用者註)同盟諸藩は、及位、中田、有屋、鏡澤等へ繰り込み、或は斥候を出し、或は巡邏して、警戒を厳にして居った。我兵よりも寺尾新七(17歳)、曽我部定五郎(15歳)の両人、斥候として及位に至り、敵大挙して雄勝峠を下らんとする情報をもたらした(曽我部尚記氏の実話)。

明くれば7月11日、此の日は我総督山村求馬は戦死し、全軍潰乱した鹿の悪日である。同日我軍は暁霧を犯し、同盟の友軍と共に及位に於いて、敵軍を支へんと行軍せしに、峠先より薩・長・小倉・肥前4藩の兵驀進し来たり、同盟軍と対峙した。午後に至り敵軍、及位在陣の新庄藩と談合するや、新庄藩は大澹にも我同盟軍を裏切り、敵軍を手引きして3方の間道より相迫り、烈しく打掛られたれば、同盟軍は地理に暗きが上に、前後左右の援路を絶たれ、全軍忽ち大潰乱した。會々天暮る、山村総督は、漸く我敗兵を収めて、有屋峠を越へんとせしに、再新庄兵の要撃する所となり、総督敵弾に當たり傷重し、従僕高橋伊七、総督の命によりその首を切り、陣羽織に包み敵の目を避け、晝夜兼行山又山を越へ、備さに艱難辛苦を嘗め、漸く仙台領鬼首に出て、日を経て帰藩した。7月23日荘厳なる葬送の式を執行し、軍國中のこととて、一藩挙つて軍装を以て會葬し、浄光寺の先塋に葬る、年僅かに三十有三。……以下略」(『上山市史編集資料㉒幕末明治維新資料/53頁』より)

市内軽井沢にある名刹浄光寺(浄土宗)は、藤井松平家の菩提寺となっており、藩主の他にも多くの家臣たちが眠る。なかでも特筆すべきは、奥羽鎮撫総督府傘下(新政府軍)で、庄内藩征討の官軍兵士として絶命した菅谷友尉、谷野廣年の墓碑や、奧羽列藩同盟の結成時東奔西走した側用人増戸武兵衛、秋田戦線で奥羽越列藩同盟軍戦士として悲運な最期を遂げた上山藩軍総督の山村求馬の墓の存在であろう。

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